「型破り指揮官」黛治夫が『海軍砲戦史談』で語る日本海軍の大欠点。  

 日本海軍は、1873年(明6)のダグラス少佐率いる教官団が来てから1923年の日英同盟解消まで、イギリス海軍を師範として発達してきた。日本の練習艦隊では、イギリス海軍の斉一第一主義に類した日課や行事について、単に伝統的な美風として無批判に形だけを候補生に教えていたのである。  

 日本海軍の慣例や、規則で戦力の涵養に害があることは何であったか。日本海軍の日課の精神などは、どこでも研究されていないといっても差し支えない。大正末期に運用術練習艦「富士」の教官太田質平中佐(兵32)が「艦内要務」と名付けた本で新しい日課を説いた。しかし臨戦時または戦争中、対敵警戒を厳重に行ないながら、急速に訓練を行ない、同時に艦内各部の手入れを調和させる着眼の下に、日課を定める考えは薄かったといえる。  

 日本海海戦の前、鎮海湾の聯合艦隊は、日課など適当に簡単化して専ら戦闘力の練磨に成功したのではないかと推察される。艦長や副長が偉ければよいが、平均的な人だとうまく行かない。実例を示すと、この前の大戦争でドイツの軽巡洋艦「エムデン」を追いかけて太平洋からインド洋に作戦中、巡洋艦「矢矧」では、砲術科の兵員を使って毎日錆落しや繕い塗りをしていたというのだ。若い士官たちは心配でたまらなかったが、「エムデン」がオーストラリアの巡洋艦「シドニー」のためココス島で撃沈された後の帰りがけに、やっと点的機による照準射撃を行ったという事実がある。砲術訓練の犠牲によって船体の保存作業が行なわれるのだとすれば考えなければならない。  

 鎮海湾の訓練は、対空警戒、対潜警戒、毒ガス対策などの必要がない時代だった。そして砲術訓練も、方法が幼稚であり、やることが簡単だった。その上、根拠地を早朝に出て、その日の正午過ぎには決戦が始まった。しかし現在の作戦ではそうはいかない。内海西部の待機泊地から決戦場に到着するまでには数日を要する。その大事な数日を軍艦例規どおり、リノリュームの油拭き等に使われるようでは、対潜警戒にも、会敵前の兵器の整備にも訓練にも悪影響を受けることになる。敵に向かっているとき居住甲板の手入れなどに時間を割く馬鹿な副長もいないと思うかもしれない。しかし戦時に、リノリュームを拭いたり、真鍮金物を光らせたり、せっかく密閉してある舷窓を開けて真鍮を磨いたりさせた副長が一艦を失う原因を作った戦例を現に私は知っているのである。  

 兵学校では、数学や物理などはしっかり教えるが、一艦の戦力をいかに養成するか、戦備をいかにして戦況に適応させるか、これらと日課、保存整備作業をいかに調和させることなど教える教官がいただろうか。卒業後、海軍大学校に至るまでを考えて見ても教える教官などいなかった。軍艦例規の日課表のような、ルーティンを鵜呑みにしてきただけである。実戦の場面を考えない、ネルソン以来100年の平和を保ったイギリス海軍の弟子だけあって、長期の近代戦を戦うための要務がおろそかにされているのが日本海軍の大欠点だった。

 イギリス海軍では洗濯物の干し方など、昔は喧しかった。しかし、今では乾燥室など使って乾かすことが多い。日本海軍のように大がかりに満艦飾のように、マストから艦首までひらひら帆走軍艦のように揚げているのは写真でも見たことはない。アメリカ海軍では尚のことだ。洗濯物に限らず、練習艦隊では、何も考えない中尉の甲板士官まかせの教育で日本の若い士官は昔のままのイギリス風の日課や慣習を、よい伝統と早のみこみして馬鹿のひとつ覚えをしていたのである。軍艦の日課とか慣習とかは、新式の兵器や戦術、戦争方式の移り変わりにマッチさせるように考えるべきである。 

※本稿は、黛治夫著『海軍砲戦史談』(1972年、原書房)の一部を許可を得て転載したものです。