大正10年の皇太子御訪欧(御召艦「香取」、供奉艦「鹿島」)の話。この欧州各国巡遊については、相当に激しい反対もあった中、実現したのは原総理と加藤友三郎海軍大臣(海兵7期)の力によるところが大きかったと言われている。
出発前の諸準備の中で、最も問題であったのは、弾火薬の処理であった。当時、弾火薬の爆発事故で沈没した軍艦は、「三笠」(明38)、「松島」(明41)、「筑波」(大6)、「河内」(大7)があり、いずれも多数の殉職者を出した。また、大事に至る前に防止したが人為的事故としては「磐手」(明39)、「三笠」(大元)、「日進」(同年)があり、長期にわたり御乗艦になる皇太子殿下に万一の事故を恐れる空気は強かったという。当時、軍務局第一課長であった山梨大将は、以下のように回想している。
東大総長から東宮大夫になった浜尾新という人がある。数年前に「河内」「筑波」が爆沈したことを知っているものだから、海軍の火薬に信用がない。それで大臣にお召し艦の火薬を卸してくれと申入れた。大臣は「軍艦には武器があるのが当然だ。武器のないようなものは軍艦ではない」とはねつけると、「それでは商船で参ることにしよう。赤道や紅海を通って行くので、そんな危険な艦に殿下に乗って頂くわけにはいかない」と言った。そこで大臣は厳然として、「軍艦に関しては、当然海軍大臣の全責任だ。東宮大夫の職責権限外だ」ときめつけた。加藤さんは、このように、ことの本質、職務権限などに関しては、実にはっきりしていた。少しも遅疑逡巡することなく、一刀両断的だった。
浜尾大夫はとうとう大臣に屈してしまったが、その代り大臣もこうはっきり言い切ったからには、その責任が重い。そこで呉火薬試験所に命じて、次のような処置を講じたのである。
1 「香取」は内地出港から帰港まで、毎日弾火薬庫の温度、湿度、気圧を報告する。
2 呉火薬試験所では、「香取」に積んだ各種火薬と同種目の火薬試験片を、同艦弾火薬庫と同一の状態におき、その変質の状況を厳密に検査し、少しでも異状を認めたら直ちに「香取」に通報して海中に投棄させる。
加藤という人はこのように偉かった。胆力があり、用意周到で、沈勇の智者であった。幸いにして火薬に関しては何の事故もなかった。 (『山梨勝之進先生伝記資料(その2)』(2000年)ほか)