支那事変の頃、陸軍から海軍に対して大本営令改正の商議があったのであるが、それは昭和13年頃と記憶している。当時は近衛首相、海軍は米内海相、軍務局長は井上(成美、後大将)、陸軍は杉山陸相、閑院宮が総長であったと思う。

 その改正の要旨は、大本営のメンバーとして首相、外相、蔵相などを加えるよう提案してきたのである。これは詳しく説明するまでもなく政戦略の調整が最高の戦争指導の眼目であり、国家の総力、国民のあらゆる生産活動が結集されなければならない現代の戦争の建前からすれば、この提案の趣旨は尤も至極のことであった。つまり実質的にいえば、大本営がイギリスのウォー・キャビネットとChief-of-Staffを一緒にしたようなものになる訳である。

 明治の古い時代には伊藤、山縣、大山のような元老がいたのであるけれども、当時にはこのような軍事に通暁した元老が一人もいない。それから陸軍の権力というものが昔とは比べものにならない程にアンバランスに強いものとなっていた。

 それで改正の主眼というものは大変結構なものであるけれども、もしそのとおりになると、実際の運用がどうなるかということである。陸軍の力が非常に大きくなっている上に、大臣とか総長の統制力が弱くなっているのであるから、実際は参謀本部や軍務局の急進的な中佐とか少佐というところが全陸軍の動向というものを動かすというのが実情であった。

 そこで当時の海軍には、もし大本営を事実上のウォー・キャビネットとか或はウォー・キャビネットとチーフ・オブ・スタッフとを混合したようなものにすれば、理屈としては日本の戦争指導の名目上の最高権力者は参謀総長になってしまうが、実際には総長が宮様であるからこれを陰で操る者が実際は内閣総理大臣以上の実力者になってしまうというのが見えすいていた。であるから当時の軍務局長はじめこの提案には賛成できないとして、大本営は純粋な統帥機関として残した方が良いのであると主張し、大本営の決定は戦略に限定し、政略を左右する重大問題は閣議でもう一度ふるいにかけて閣議の最終的な決定に残すという方が賢明であるということになって、結局この案を蹴ったのである。

 今から考えると、また今の思想から見れば、その後間もなく太平洋戦争になったのであるから、その時にそのような戦略と政略をー緒にするような大本営を作っておいた方がましであったのではないか、といったようなことも言えなくはないと思うが、その当時は、われわれは固くそのように信じていたのである。このような次第で、戦争指導は機構の上からも、運用の上からも、人事配員の上からもうまく行かなかったのであった。

 当時の日本の戦争指導機構は、天皇の下に、政治を指導する内閣と軍事を指導する大本営があって、大本営の下に陸軍と海軍があったのであるが、どうも日本にはセクショナリズムがあり大本営の中で一緒に仕事をしないで、参謀本部と軍令部が別々に看板をあげて仕事をしていた。大本営陸軍部、同海軍部とはいうけれども、実は参謀本部であり、軍令部である。

 そこで統帥方面と政治方面の調整のため、大本営政府連絡会議が設けられたのであるが、これは連絡会議であって、もちろん諮問機関でもなく執行機関でもなく、そうかといって天皇が直接出席される決定機関でもない。ただ双方が連絡するだけで、戦局が激しくなると戦況報告会議になってしまった。結局これが浮き上って全体の政治と軍事の歯車を噛み合わせ.て行くという形を失ってしまったのである。

 機構の面からすると権力がない機構であるから何もできなかったばかりでなく、人の面でも適任者が出て来ない。機構制度を作るのもこれを運用するのも人事が根本であるから、適材を適所に配することがどうしても根本になる訳である。太平洋戦争では元老もなく、閣僚にも人材がなく、一般の規律も日露戦争当時より遙かに劣って統制も乱れ勝ちであった。

 それから内閣の統制力が衰えて当時の時代の空気としても、総理以下閣僚の識見手腕からも、一世の難局に自ら身を挺してこれに体当りして行くという気概の者がいなかった。反面陸軍の勢力は殆どこれを抑制する力のない程増大し、しかも陸軍自体の統制は派閥紛争に乱れて中心が定まらず、若い人々の間には未熟な膨張主義的革新思想、侵略的大陸政策が横行していたのであった。

 次に、個人の識見力量の処理し得る範囲には限界があり、これを補強するところに機構制度の功徳がある。しかし、戦時大本営は前に述べたような経緯で狭い統帥機関の性格に止めたのであるから、政治と統帥を総合統一する権限は天皇だけが持たれていた。ところがその天皇には政務上の常時補弼はあったが統帥上の直接の補佐幕僚は付いていなかったので、事実上天皇が政治と作戦を調整されるという能力はなかったのである。

 日露戦争では、天皇が親しく裁決を与えられることかできたというのは、大本営が指導力を持っていたからであった。特に山縣元帥のような実力者があって大本営におり、満州軍総司令官の大山元帥も大局をよく見て国家の利害を見失うような人でなかったので、中央の統率が軌道を失わないですんだのである。また山縣、大山、児玉といった人間的組み合わせも派閥関係とにらみ合わせて非常にうまく行っていた。内閣に対しても大本営は権威を持っていて、山縣元帥が先輩であった関係もあり桂首相を呼びつける程実際の面でも権威を失わず、機構上はともかくとして統制のある指導が大本営でできたのであった。

 ところが太平洋戦争の時には、政府及び統帥部に人材が乏しかった上に、適材適所を得ていなかった。日清戦争当時の伊藤首相、日露戦争当時の桂首相などに比べ、過般の大戦時の東条、小磯両首相らが政治家としても、将軍としても、一廻りも二廻りも小型であったことは否定できないようである。また山本権兵衛海相と嶋田海相が比較にならぬように、寺内(正毅)陸相と東条または杉山陸相とは比べものにならぬような気がする。

 ところが背負っている責任とか運用する部隊が大きいに拘らず適所に適材を得ていない。例えば山本五十六大将のような識見手腕の人が、大臣や総長の地位にあって国家の運命を決する大切なヴォート(vote:投票権)を行使する機会が与えられなかったのである。最高戦争指導会議で終戦方策を検討したときでも、6、7年前にノモンハンや張鼓峰で戦ったソヴィエトを仲介に頼んで、米英にわたりを付けようと考えた統帥部の首脳や閣僚の見識がどんな程度であったかは、その事自体がこれを物語るのである。

 また最後までポツダム宣言受諾に反対した将軍の中に、終戦の止むを得ないことは十分承知しているが、もし終戦に同意したら、激昂している部下の少壮青年将校等が何をしでかすか解らぬのでこれらの若い者の気持ちを緩和するために心ならずも反対論を唱えたと言った人がある。そういうジェスチャーを見せるために、責任ある会議で論争して良いものかどうか、もしもその主張が勝ちを占めたらこれらの将軍はどうするつもりであったのだろうか。

 最終の決定を下す会議で、貫徹するための主張ではなく、若い者に見せるためのジェスチャーとして論議するというようなことは、私には何としてもそのような考えの出て来る理由が分らないのであるけれども、そのような人がどうも上層に多かったのではなかろうか。このように人が所を得ていなかった点があり、日本のためにかえすがえすも残念に思うのである。 (「戦争戦争論」『高木惣吉少将講話集』(1979年)より)