戦史叢書といえば、全102巻と資料集2巻からなる最も権威ある公刊戦史といえる。現在ではオンラインで閲覧できるようになっているのだが、戦史の記述が何かと陸海軍別々になっているのは仕方のないことかくらいに思っていたが、庄司潤一郎「「戦史叢書」における陸海軍並立に関する一考察-「開戦経緯」を中心として」(『戦史研究年報 第12号』(2009年3月、防衛研究所))によると以下のような興味深い経緯が明らかにされている。

 終戦後、史料が散逸しないうちに戦史編纂を行うべきとの各省からの要望や、昭和天皇から東久邇稔彦首相に対して、戦争の原因・敗因の調査を打診する動きがあった。こうした動きを受けて(略)、1945年11 月には内閣に「大東亜戦争調査会(のち戦争調査会と改称)」を設置した。しかし、この調査会は対日理事会において問題化し、ソ連や英連邦などの強い反対のため頓挫、(略)46 年9 月に廃止された。

 一方、陸軍省は1945 年11 月、「史実部」を設置し、陸軍としての大東亜戦争に関する戦史の調査に着手した。その後、12 月に第1(陸軍)・第2(海軍)復員省が設置されるにともない、第1復員省に「史実部」、第2復員省に「史実調査部」が設けられ、大東亜戦争史の調査研究が着手されることになった。しかし、(略)日本独自の研究は禁止され、(略)復員省は米軍の対日戦史調査・研究に協力することになった。

1946 年6 月、改編した復員庁の第1 及び第2 復員局のなかに、「史実調査部」(陸軍)と「資料整理部」(海軍)が各々設けられたが、主な業務は、作戦戦闘に関する大東亜戦争の史料を収集・整理し、米側に提供することであった。

 その後、(略)規模の縮小にともない、陸軍関係者は、戦史研究の継続が困難と考え、一部の人員を残して、服部卓四郎元陸軍大佐以下の多くの関係者は、民間の研究機関である「史実研究所」を創設するにいたった。(略)1953 年3 月には、その成果が『大東亜戦争全史』(4 分冊、鱒書房)と題して、一般に公刊された。本書は、服部が収集した戦争指導に関する貴重な一次史料に依拠して記述がなされ、(略)重厚な本であるにもかかわらず、当時ベストセラーとなり、さらに米国、フランス、イタリアの戦史研究所において全訳されるなど、高い評価を得た。しかし、研究所の陣容から陸軍中心の大東亜戦争史となった点は否定できず、本書の史観には海軍側に不満が多く、また海軍作戦の記述が少なすぎるとの意見も出された。

 一方、海軍関係者は、「史料調査会」を設立し、(略)海軍独自の視点から大東亜戦争の調査に取り組み、1950 年には「太平洋戦争日本海軍史」(全18 巻)をまとめ、のちに海上自衛隊において印刷・配布した。

 1955 年6 月、防衛庁は(略)、「戦史委員会」を設置することを決め、10 月には(略)西浦元陸軍大佐を初代室長として防衛庁の「戦史室」が発足した。その際、旧陸軍関連の(略)史料の多くは、要員とともに「戦史室」に移管され、その後の「戦史室」における活動に生かされることになった。一方、旧海軍関係の「資料整理部」関連の史料は、「史料調査会」(略)に移管され、「戦史室」には移管されなかった。これにより、その後の統一的な史料保存・管理、さらには研究上の便宜に大きな禍根を残すことになった点は否定できない。

 その原因として、初代戦史室長の西浦元陸軍大佐が、東条英機の側近として、陸相秘書官、陸軍省軍事課長などを歴任していた点に関して、当時内局及び旧海軍関係者などから批判があり、史料をはじめ「戦史室」には協力できないとの意見が強かった点が指摘されている。さらに、「史実調査部」の系統や陸上幕僚監部など旧陸軍関係者が強力に推進する「戦史室」の設置に対して、旧海軍側では抵抗感もあり、「戦史室」の業務についても、旧陸軍関係者は、戦史の編纂が目的であると理解したが、旧海軍側においては史料の収集が主任務との観点から人選に当たり、これが後々まで影響を及ぼした。「戦史室」の編成も、陸上班・海上班・航空班と分かれていたため、陸海軍別に戦史の編纂がなされることになった。こうした動きの背景には、戦前から続く陸海軍の確執が存在していた点は否定できない。

 「戦史叢書」が刊行される段階になり、特に統一的な叙述が必要とされる「戦争指導史」については、陸上班と海上班の意見が対立し、一時保留されることになる。旧陸軍の影響が強い「戦史室」の執筆になれば、陸軍主体の歴史叙述がなされるのではないかといった、旧海軍関係者及び海上自衛隊の懸念が存在していたのである。その後「戦争指導史」の保留が解除され、「開戦経緯」として刊行されることになったが、陸海軍の開戦責任とも密接に関連していたため、両者の見解の対立は埋まらず、ほかの「戦史叢書」同様に陸海軍別に編纂されたのであった。

 『陸軍開戦経緯』、『海軍開戦経緯』の歴史叙述に対する評価は、様々である。(略)極めて中立的な記述であるとの評価もあれば、(略)陸海軍からの無形の心理的影響を受けているという感じを、抱かざるを得ないとの指摘もある。

 特に海軍関係の「戦史叢書」の執筆者は、「戦史室」への抵抗感もあり、陸軍に比較して若く、戦争指導など要職の経験のない軍人であった。例えば「開戦経緯」の場合、原四郎は、1911(明治44)年生まれ、陸士44 期の元陸軍中佐で、大本営参謀などを歴任していたが、内田一臣は、1915(大正4)年生まれ、海兵63 期の元海軍少佐であった。

 したがって、海軍の場合、編纂・執筆過程において、海軍OB や旧海軍出身の海上自衛隊首脳部が、大きく関与していたと言われる。さらに、当時陸軍は既に「負」のイメージを持たれていたが、海軍は戦争に反対であったという「通説」、いわゆる「陸軍悪玉・海軍善玉史観」が広く国民に流布しており、それを守る必要性も、海軍関係者にとって切実であったと思われる。

 こうした批判に対して内田は、公刊の戦史であるから、公平な立場で読者に判断の資料を与えるべきであると一般に言われるが、それは誤りであり、歴史書は、史料との対話である以上、著者の歴史観であることに変りはないと述べ、『海軍開戦経緯』は、公刊の歴史書としては、著者の意見が出すぎているという批判があるかもしれないが、以上の理由から、その方がむしろ正直な態度ではなかろうかと反論した。いずれにせよ、戦前から続く陸海軍の対立が、「開戦経緯」に関する「戦史叢書」の刊行形態(並立)と記述内容に大きな影響を及ぼしたのである。