高木惣吉少将(海兵43期)は『現代の戦争』(1956年、岩波新書)の冒頭、「戦争は普通に考えられているように、たやすくその正体をつかめるものではない。経験とか、教育によって、予め与えられた戦争の観念は、実際にわきおこった戦争に必ず奇襲され、たんに観念上ばかりでなく、それまでの教義とか方法までみじめにくつがえされるのが今までの習わしである」と述べている。そして「後向きの軍備」にとして同書や講話において次のように述べている(『高木惣吉少将講話集』(1979年))。
第一次大戦の際イギリス陸軍卿となったキッチナー元帥は、周知のようにスーダン、カーツームの英雄で一生独身を通したくらいの徹底居士であり、戦争及び政治の経験家として英国第一流の人物であった。ところが、第一次大戦がたちまちにして塹壕戦に固着してしまって、ただ軍需物資と動員兵力ばかりが天井知らずに厖大となる事態に直面したキッチナーが「I don’t know what is to be done – this isn’t war!」と叫んだことは有名である。
第一線においても英陸軍は「野戦勤務条例」(Field Service Regulations)を金科玉条の教範として出かけたのに、それが全く役に立たなくなった。その15年前の南ア戦争のときも「歩兵操典」(Infantry Drill)を虎の巻として出征したところ、ボア軍のゲリラ戦法に逢って散々な目にあったのである。
これについてロイド・ジョージはその回顧録の中に、「ボア戦争のときわれわれは、なおクリミヤ戦争のつもりでこれを迎えた。アフリカ草原の特殊経験として取捨しなければならなかったアルマ合戦をそのまま、わが軍事思索家たちは次の戦争計画にふけっていたところに、世界大戦と遭遇してしまったのである」と述べている。
日露戦争、伊土戦争、バルカン戦争をへて第一次大戦になったのであるが、それまでに既に機関銃、重砲、鉄条網および飛行機の重要性は軍事的視野にはいっていた。ところが聡明をもって神話の将軍となったフォッシュが1910年に飛行機を見たとき何と批評したか。「これで飛んで遊ぶのは体の運動にはいいかもしらんが、軍事的な価値はゼロだ」と、にべもなく一笑に付したのである。
同じく第一次大戦の初め、ドイツ軍の機関銃が連合軍の攻撃を麻痺させていた1915年春、機関銃増備案がへーグ元帥の前に出されたところ「機関銃は大隊当り2挺あれば十分すぎるくらいだ」と一蹴されたが、キッチナー陸相も、「1大隊当り4挺を効果あるものと思うが、それ以上はぜいたくだ!」と、どなりつけたものである。
軍需省局長ゲッジスが以上の言葉をロイド・ジョージに伝えたところ、「キッチナーの最大限をとってそれを自乗したまえ。その結果を二倍したまえ。そしてその見透しがついたら、あわよくばさらに二倍にしたまえ」と指示したものである。この生産規模の先見によって大戦末期イギリスは重、軽機関銃の生産年額24万挺に上り、英軍各歩兵大隊は、ルイス軽機関銃32挺とその50%の重機関銃を備えられたのだが、それでもなお物足らぬ状況であった。
1915年6月、タンクと称する陣地突破機械としての装甲車の建造案が英陸軍工兵総監の前に提示されたとき、総監は、「この案を審議するまえに、われわれは空想の世界から厳然たる現実に降り立たねばならぬ」と酷評した。それから8ヶ月後に最初の戦車がキッチナー元帥の面前で、現実に威力を見せたにも拘らず、元帥は、「手ぎわのいいおもちゃの機械だ。戦争はこんな機械で勝てるものではない」と批評したものである。
そこで陸戦用の新兵器を、先物買いといわれたチャーチル海軍大臣が、海軍予算で研究試作をつづけ、それから約2年、1917年11月20日、カムプレーの激戦に連合軍は378両の戦車(隊員約4000)を駆り出して12時間に1万ヤードの独軍陣地を突破し、翌18年8月、最後の大攻勢には456両を予定したが、8日戦闘開始の際は415両が発進した。
その頃にはフォッシュ元帥もウィルソン大将もタンク師団をもって決戦の枢軸兵器と決定し、6000ないし8000台の生産を計画したのであったが、わずか3ヵ月前の4月に英軍総司令官ヘーグ元帥は、「フランスにある英軍歩兵の不足にかんがみ、私は1個旅団と3個代替にタンク隊の創設を縮小することに決した」という意見をだしている。これは戦車師団の解消に近いものだった。
これらの実例から、戦史または個人の経験から導いた一般的法則あるいは教訓に執着すると、新しい事態に対応する創造の芽生えを踏みつぶしてしまう危険の多いことが汲みとれる。大いに戒心すべきところである。戦史の教訓を適用する際に過誤に陥るという主要な原因は、過去の事実と現在の情勢との相互関係を持たせる点に誤りが入ることである。
現在の情勢あるいは条件は、それが歴史の一部分となった後に初めて、それが何であったかということがはっきりと認識される。すなわち過去の出来事のどの型のもの、形式のものに近く似て繰り返されたかが判明するものなのである。