「船員ニ告グ」というのは、太平洋戦争末期の1944年3月に海軍省教育局が戦時輸送船の船員の教育参考資料(海軍省教秘第136号)として配布した20ページの小冊子である。「第一 総説」は次のとおり説き起こしている。

 戦時下海上交通保護の理想は、保護海域の制海制空両権を先制把握するにあり。換言すれば敵潜水艦を逸早く撃滅して単独自由航行せしむるに存り。然れ共、これは事実不可能に近く「ゲリラ」戦に対し絶対の制海制空両権は実在し得ざるを例とす。従って船団を編成し直接に海軍力を以て護衛し交通保護に任ずるを通則とし、以て綜合海運力の最大発揮を期す。

 船団は部隊なり。須く船団精神を昂揚振作し、軍隊に準拠したる厳たる指揮統率の大義を一貫確立し、船団部隊指揮官を核心として有機的に克く一致団結し常に厳正なる隊形を保持し、敵潜をして慴伏(しょうふく、おそれてひれ伏すこと)せしむるの慨無かるべからず。

 今や船舶の戦局に対する与力は極めて重大なり。海運第一線の戦士に対する国家の要請と期待は真に絶大なり。生を皇国に享け真に千載一遇の聖戦に際会せる皇国船員の栄光何物か之に過ぎん。須く各員粉骨砕身一億戦闘配置の尖兵として黙々として国家至上の聖なる本分を完遂し運輸補給戦に対する真に切実なる祖国の要請に応へ奉るべし。

 そして、最後は「第十二 結言 戦争と無理」で次のとおり締めくくっている。

 凡そ戦争は無理の連続なり。敵の加ふる無理を物的にも精神的にも克服して余す処無からしめよ。然らば我勝者とならん。勝者の決は敵に比しより多く無理に耐ふる金剛心精神力に在りと謂うを得べし。

 『戦う民間船』の著者大内健二氏は、「敵側が艦艇や航空機にまで優れたレーダーを装備し、潜水艦は恐ろしい狼群作戦を展開し、優れた航空機を大量に出動させ、強力な通信傍受システムを整備している時代に、「心眼」を以て見張れ、陣形整正、堂々の船団を組めば敵は恐れをなす、煙を出すな、大和魂、武士道精神、軍人精神を発揮することが運輸効率の向上につながる、船団勝利の帰結は旺盛なる金剛精神の発揮にあり等々、あまりの時代錯誤、現実離れした教育内容に唖然とするばかりである。」と述べている。

 また、「船団護衛という戦争の基本的な要素に手抜きをしていた日本海軍は、輸送船隊を守り切るという基本を怠り自滅に近づいていった焦りの姿が、この檄文の中に感じ取られる」としている。

 太平洋戦争において日本は100総トン以上の商船2,568隻、843万総トン及び推定4,000隻を上回る漁船や機帆船を失った。100総トン以上の商船の乗組員の犠牲者だけでも30,592名に達しており、太平洋戦争中に日本商船隊の運航を支えたおよそ7万人といわれる乗組員の44%に達している。この犠牲率は日本陸海軍全将兵の犠牲率19%に比べても驚くほどの高率である。

 戦後、1952年には軍徴用船の戦死傷者に限り国家補償がなされることになったが、その他の船員については、1942年の「戦時海運管理令」に基づく「船舶運営会」で一括運航されていたものの適用除外とされた。戦没した全ての船員や船員家族に対する国家補償がなされるよう法律が整備され、東京湾口の観音崎に建立された顕彰碑の前で第1回の戦没船員追悼式が皇太子ご夫妻の臨席を得て挙行されたのは1971年5月のことであった。

 戦後の我が国商船界と海上自衛隊の関係を具体的に語る資料に接したことはないが、海賊対処活動に出港する部隊の見送りに日本船主協会の関係者が来られた時、「隔世の感」と漏らされた大先輩がおられたことは記しておきたい。観音崎の慰霊碑には「安らかにねむれわが友よ 波静かなれとこしえに」とある。