戦前の教科書「尋常小学國史」(大正9年文部省)にはこうある。
寛政の三奇人と呼ばれたる人に林子平あり。仙台の人にて、若き時より学問、武芸に励み、殊に地図を見ることを好みて、終日食事をさえ忘るるほどなりき。(略)オランダ人より外国の形勢を聞くに及びて、海防のゆるかせにすべからざるを悟り、海国兵談を著して「我が国は四面みな海にして、江戸日本橋よりヨーロッパ洲に至る間、一つの水路なり。彼攻来たらんとならば、何れへなりと来ることを得べし。何とて備を怠るべきぞ」と述べたり。(略)国民は外国の事情にうとくして、多くは世界の形勢を知らず。幕府もまた、子平の論を以ていたずらに人心を惑はすものとなし、(略)子平を罰したり。をりから子平、病にかかりしかば、「親もなく妻なく子なく版木なし、金もなけれど死にたくもなし」との歌をよみて「六無斎」と号せり。後その罪をゆるされ、明治に至りて更に追賞せられたり。寛政四年、子平罰せられて間もなく、ロシアの使、我が国に来りしかば、世人は子平の先見に感じたり。
日本で最初の海防論といわれる「海国兵談」全16巻の原稿は、1786年には完成していたが、資金不足のため第一巻「水戦」が発刊されたのが2年後で全巻が発刊されたのが1791年であった。いわゆる自費出版であり、売れたのは僅か34部であったという。その内容は、単なる兵術書というよりは、国の置かれている世界的位置と国力を土台として、兵士と兵具を背後から支えている経済、教育、政治、社会等の体制にも眼を向けた国家安全保障論とでもいうべきものであった。また、当時の兵学につきものの秘伝伝授という考え方ではなく、知識の公開、国民の啓蒙と目的とした出版であった。
林子平は、日本を海国と位置づけ、海防体制の不備を指摘、海国にはそれに相応しい防衛戦略、防衛力整備が必要であることを訴えた先駆者であった。その海防観は、敵の軍艦はどこへでも入港しようと思えばできるということが基本的前提にあり、その防衛には「水戦」が第一と位置づけた上で、その要は「大銃(おおづつ)」すなわち大砲にあるとした。海防の具体策は海岸防備であり、日本全国に海岸砲台を造り、日本全土を要塞化、海上から侵略する黒船を水際撃破するという考えであった。残念ながら、艦隊を持ち、洋上で迎え撃つという洋上撃破の戦術思想までには及んでいない。
このような海防観のきっかけは、蝦夷地に渡航した際(していないとの説もある)、そこで垣間見たロシア南下の断片的情報に接したことであった。林子平は、その後長崎に遊学、日本の地理的位置を世界地図によって確認、ロシアの南下情報を得、オランダ船を実見し、警世の書としての「海国兵談」を著したのである。
この啓蒙書は、主張の当否はともかく時代の受け容れるところではなく、林子平は政治的判断で処罰される。南蛮人を追放して採用した鎖国政策は、海上防衛の問題そのものを日本人の頭の中から消し去り、対外的軍備をほとんど持たなかった時代を現出させた。当時の情報量から考えれば「海国兵談」は驚異的な防衛論といえる。そして、このような時代に処罰されることを覚悟してまで訴えた林子平の海国防衛の啓蒙にかけた使命感の強さは、まさに「海の先覚者」と呼ぶに値すると思う。
※本稿は、佐藤俊夫「林子平の「海国兵談」-海防観とその背景」『波濤』(平成7年1月)の一部を許可を得て転載したものです。