▼マッキンダーの「ハート・ランド」
イギリスの地理学者マッキンダー(1861-1947)は、大英帝国の絶頂期において国家戦略を論ずるなかで「ハート・ランド」の概念を提唱し、近代地政学の事実上の創始者となった人物だ。
彼の主張を一言で言うならば、陸上交通や産業の発達で大陸中央部のハート・ランドにエネルギーが蓄積されると、ここを根拠とするランド・パワーが強大になり、沿岸地帯に及んでいるシー・パワーを駆逐して、遂には世界を制する大帝国になりうる。したがってイギリスは、大陸に単一の強国ができることを制して、諸国を互いに競わせつつ、自らは海洋を支配することを目指すべきだ、となる。
当時のイギリスは、普仏戦争(1870-71年)で大陸の隣国フランスを打倒するプロイセンが出現したことに大きな衝撃を受けた。しかし、国民はいまだトラファルガーの勝利の夢から醒めきれず、海上においてイギリスに挑戦できる国はないと考えていた。それから30年がたって、ティルピッツ提督がドイツの外洋艦隊の建設に乗り出してきた。すでに最大の地上軍を持ち戦略的に絶好の位置を占めるドイツが、イギリスのシー・パワーを相殺するような海軍力を建設し始め、大国の列に入り始めたのだ。
ちょうどその頃、イギリスがはるか南アフリカに大軍を送ったボーア戦争が終わり、ロシアはそれ以上の大軍を4,000マイルも離れた満州に鉄道で輸送して日露戦争が起きた。交通手段の発達が戦争を、そして歴史を大きく変えたのだ。
マッキンダーは、それまで優位に立っていたシー・パワーに対し、鉄道によりランド・パワーの兵力の機動が容易になった結果、ハート・ランドを支配する国家がイギリスの脅威になると考え、シー・パワー諸国による「封じ込め」により対抗することを提唱したのだ。
▼マッキンダーの世界観
マッキンダーは、ユーラシア大陸とアフリカ大陸をひとつの大きな島「世界島」と呼ぶ。パクス・ブリタニカとして両大陸を眺める地理感覚や、世界の海を支配しアフリカに多くの植民地を持っていたからこその見立てだろう。
このような見方で大陸を見ると、ユーラシア大陸中央に海上交通から遮断されシー・パワーにとって近づきにくい地域がある。「ハート・ランド(中軸地帯、回転軸の地域)」だ。
この地域の東は人口希薄なツンドラ地帯であり、河川はすべて北極海に流れ込み、いずれも不凍港とつながっていない。北は北極海でシー・パワーの接近を許さず、南は山脈や高原、砂漠が続く障害地帯となっている。西だけが開けており、その南半分が黒海、カスピ海で、北半分がヨーロッパ・ロシアから東欧まで大平原となっており広大な交通路となり得る。ただ、シー・パワーがこの方面から首尾よく侵入できたとしても、海岸からハート・ランド中心部までの縦深を考えると、ハート・ランドは事実上シー・パワーの不可侵領域といえ、ランド・パワーの安全は保たれることになる。
彼は、もともとは未開発なハート・ランドだが、陸上交通や産業が発達し国力が蓄積されれば、ここを根拠地とするランド・パワーが沿岸地帯に及んでいるシー・パワーを駆逐して世界島を制し、次には自らシー・パワーを獲得し、ついには世界を制する大帝国になり得ると考えた。マッキンダー地政学の有名なテーゼ、「東欧を支配するものはハート・ランドを制し、ハート・ランドを支配するものは世界島を制し、世界島を支配するものは世界を制す」だ。
ハート・ランドの外側で温暖多湿な大陸の縁辺部が「インナー・クレセント(内側の半円弧)」である。さらにその外側のイギリス、日本、アメリカ、カナダ、オーストラリアなどからなる海洋領域は「アウター(インシュラー)・クレセント(外側(島嶼性)の半月弧)」としている。このアウター・クレセントが海洋国家群からなるシー・パワーの領域である。
このハート・ランドのランド・パワーとクレセントのシー・パワーの生存と繁栄をかけた闘争こそが、19世紀の国際政治を特徴づけた「グレート・ゲーム」や中軸地帯の制覇を狙うランド・パワーとこれを阻止しようとしたシー・パワーが戦った第一次大戦、そして第二次大戦後の「冷戦」を形作ったのである。冷戦終結後30年を経た現在では、再び中国、ロシアといったユーラシア大国と日米豪印四カ国の「クアッド」、NATOなどの海洋国家連合との対立図式が強まっている。「地政学の時代」といわれるゆえんだ。