昭和26年10月19日、サンフランシスコにおける講和条約と安全保障条約に調印して帰国した吉田首相は、連合軍最高指揮官リッジウェイ大将に呼び出され、PF(1,420トン級)18隻、上陸支援艇(250トン級)60隻を貸与する条件で日本海軍創設を要請された。これを受けてY委員会が設置されるのであるが、貸与される予定のPFは、すでに24年10月にはソ連から横須賀へ回航、返還されていた。このPFの保管業務に従事する日本人駐留軍労務者らは「YSグループ」と呼ばれていた。

 グループの一員であった高橋俊策元大佐(海兵48期)は、昭和56年の自家本「落魄(らくはく、落ちぶれること)」で次のように回想している。

 復員し、知人のつて等で会社を転々としたが、その間に復員した息子は結核で死亡、妻も感染した。ヤミ米の手配と病人看護で、芯が出た畳の上に海軍時代の古毛布一枚でゴロ寝をする窮乏生活に落ちた。書を売り剣を売り、家具も売り、妻は病衣と死装束の一張羅だけを残し総て売り尽くした。

 進退窮まらんとした時に得た職が占領軍の労務者であり、遂に星条旗ひるがえる基地の門をくぐることになった。昭和24年8月末に「未就役船舶管理部隊」として発足したグループは海の老兵の吹き溜りで、将官級十余名、佐官級は五十余名、総計二百余名の半数以上は准士官以上であった。この中には、司令官、戦艦艦長経験者、旧華族出身者、恩賜組の英才等含まれていたが、「陛下の股肱」も今や「職業軍人」と蔑まれる嘆きに「憤りの失業者群」であった。

 10月には、ソ連から返還されたPFに分乗し、係留場所(ネスト)において保安監視と保存整備の労務に従事した。旧将官から終戦一等兵にいたるまで一切平等の労務に従事したが、元来船乗りで鍛えたベテランが多いので、係留替え、エンジン、兵装の保存整備、カンカン虫もなんでも間に合った。PFに加え、上陸支援艇60隻が集結する頃には「YBグループ」と呼ばれ、従業員も850名にふくれ上がった。こうなると海軍経験者ばかりをスカウトするわけにもいかず、帝大出身の秀才も、映画会社の技師も、戦犯釈放者も、倒産した社長重役も縁故を頼って入ってきた。

 朝鮮戦争が勃発すると、韓国海軍に転身する船の急速整備に当たっては顧問と人事担当者を除き総員がカンカン虫に転落した。そして韓国兵が乗り込んでくると米国士官の指示のもと彼らの指導に当たった。一部の人員は舟艇群で浦項の揚陸作戦へも派遣されたが、うるさい世間の噂にもならなかった。このような「老兵の吹き溜り」であったが、自他尊重、海軍が元来有していた民主的な雰囲気を残した社会で、他の軍労務者たちが米兵から俘囚のごとく使役されたのと異なり、米兵も一目置いたグループではあった。

 やがて昭和27年4月26日に海上保安庁の外局として海上警備隊が創設され、YBグループにあったかつての正規将校も予備学生出身者も年令42歳未満の者は全員警備隊幹部として返り咲いた。Y委員会のメンバーも大半が高級幹部の座を得た。「老兵」達の中の海軍の経歴がある者には優秀な人物が多かったが、年齢制限の関係で自衛官採用から締め出され、基地労務に根を下ろすの外なく、以後、海事関係の雑役を何でもやるようになった。

 この海上警備隊の幕開きで、奈落の底にうごめいていた「老兵」たちは、逐次ネストを去ってゆくPFとその甲板上に返り咲いた、昨日までのカンカン虫の相棒たる青年たちを心も静かに見送った。海上警備隊創設の日、PFの星条旗が降ろされ、警備隊旗(旭日の軍艦旗ではない横縞に桜)が掲げられた時、音楽隊は行進曲「軍艦」を敬遠して、明治の国定唱歌「われは海の子」を演奏した。行進曲「軍艦」を威勢よく演奏したのは米海軍の音楽隊であった。この「われは海の子」と「軍艦」の中に立ち尽くしていた老兵には涙をこらえるものもあったという。

 海上自衛隊創設の舞台のそのまた「奈落」の話。敗戦による「落魄」から返り咲いた人、そのまま基地労務者に根を下ろすしかなかった人、その違いは年齢でしかなかった。また、YBグループには戦死した海軍軍人の子弟が大学進学までの一時凌ぎに入ってきた例も多かったという。栄光の海軍が敗戦を経て、海上自衛隊として生まれ変わる歴史の襞に、人々については混乱、困窮の中、このような身につまされるようなエピソードがあったことを語り伝えるのも無駄ではないように思う。ちなみに、高橋俊策元大佐は、昭和15年海軍省報道部勤務の時、「月月火水木金金」の「艦隊勤務」を作詞した人物である。 

 余談。「われは海の子」もGHQのせいで歌詞が七番まであるのを知らない人もいるだろう。

七、いで大船を乗出して 我は拾はん海の富。 いで軍艦に乗組みて 我は護らん海の國。

 もう一つ余談。「蛍の光」の四番も知っている人は少ない。

四、千島のおくも おきなわも やしまのうちの まもりなり。いたらんくにに いさおしく つとめよ わがせ つつがなく。

※本稿は、高橋俊策「海軍の復活を夢見た日々」『水交』(平成22年9・10月)の一部を許可を得て転載したものです。