型破り指揮官こと黛治夫元大佐(海兵47期)が、「砲将東郷砲を愛して大勝し、空将山本砲を侮って大敗す」と記す黛治夫著『海軍砲戦史談』(1972年、原書房)は、読んで損のない本だと思う。その中で、海軍における戦闘要務を詳述しているが、今の海上自衛隊のやり方と比べると興味深い。
臨戦準備とは、海軍全体及び各鎮守府で開戦前に行なう出師準備とともに、艦隊を戦争状態に移す作業である。戦闘中火災を起こす原因となるもの、例えば士官私室のカーテンとか、ガソリンエンジンを使う内火艇の一部とかを陸揚げして需品庫(後の海軍軍需部)に預ける。日清戦争の頃はガソリンエンジンの内火艇などはまだなかったが、軍艦は多数の乗員が居住するため、平時には戦闘に直接必要でないが、生活を衛生的にする物件を多く搭載していた。兵員の食卓などその一例である。兵員室や、士官室の壁のペンキなども残しておくと燃えやすいので、臨戦準備の際、全部剥がしてしまえば多少殺風景にはなるが、戦闘中敵弾が炸裂しても燃え上がらない利益が生ずる。
また艦が母港やその他の軍港で臨戦準備を行なえればよいが、洋上で命令を受けるとか戦争が始まるという情報に接した場合には、食卓や可燃物を海中に投げ捨てることもよくあったのである。昔の軍艦についていうと、何より大事な作業は弾丸に信管を装着し、魚雷では頭部に炸薬を入れた実用頭部を演習頭部と換装することであった。魚雷の信管は戦闘が切迫してから装着しても間に合う。もう一つは圧縮空気を十分魚雷の気室に充填することである。
常備艦隊の軍艦は臨戦時といっても、それほど多くの作業はなかった。中には官給の防水蓆(むしろ)が足りないと思い、ハンモックから毛布を抜き出して縫い合わせた艦もある。いろいろな作業用に搭載されている直径が50mmもある麻のロープで、機械室の鉄格子の天井の上に弾片や破片を除けるマンレットという臨時の防御物を仮設した艦もある。これは以後日露戦争を経て昭和10年過ぎまで使われてきた用語だが、昭和12年の軍艦戦闘部署標準で「弾片除け」と改められた。
会敵が予想されると艦長は信号兵であるラッパ兵に「合戦準備」を命じた。ラッパ兵が「合戦準備」を勇ましく吹くと、左手にメガホンを持ち右手に号笛を握った掌帆長属が、号笛で注意を呼び起こし「合戦準備」と伝令する。その5分前には「総員足袋をはけ」という号令が出され、水兵は皆足袋をはき、ズボンの裾を紐でくくって身軽になっている。夏であれば洗濯で真っ白になった小倉の事業服である。水兵たちは戦死するかもしれないのだが、真っ白い黒の襟を後ろに垂らした軍服は着なかった。士官は真っ白い麻の夏の軍装で、肩には黒羅紗の地に金線を張り銀色の桜の花を植えて階級を示す肩章をつけていた。艦橋の面々は磁気コンパスに方位の誤差をおこさせないように、軍刀は下げず丸腰だったが、砲台長などの士官は日本刀を仕込んだ長剣を帯びていた。下士官兵のなかにも万一に備えて私物の日本刀を戦闘配置の側においていた者も少なくなかったと思われる。
兵員は救助艇として舷外にダビットで吊ってあるカッターを舷内に取り込み、中に海水を張って小蒸気艇とともにハンモックでマントレットを施す。またマストを甲板に引張っているリギン(静索)を麻のロープで補強したりする。舷窓を鉄の蓋で閉じたり、予備の錨鎖を錨から切り離して錨鎖庫に収めるのも作業の一つである。防水のためには各防水扉を、特に交通のため開いておくように定められたものを除いて、しっかり閉める。また、電灯が消えても作業ができるように蝋燭を用意したり、防火のホースを通したり、防水蓆を準備したりする。あらかじめ海水をかけて敵弾が炸裂しても引火しにくいようにした艦もあったと思う。このようにして艦内は戦闘に即応できる状態となるのである。また士官公室などに傷者収容所を開設し、治療の準備をすることも当然行なわれ、要所要所には担架も配置される。こういったことは、平素から教練を重ねているので10分ぐらいあれば作業を終わるが、今夜か明朝には敵艦に遭遇するかもしれないとなると、防水扉のクリップの締め方などにも自ら力が入るであろう。
更に会敵に警戒する場合は、艦長はラッパ兵に「戦闘」ラッパを吹かせ伝令は艦内隈なくこれを伝えた。総員は戦闘配置について、戦闘の準備を完成させ、次いで「水雷防御」をラッパと号令で伝えた。砲員は、照門、照星、照尺目盛を照らす電灯を配線する。また小口径の砲側には十数発の弾薬を配置し、探照灯は炭棒に正しい形のアークを発生させて消灯し、即時の照射に備える。そして「艦内三直哨戒、第一直哨兵残れ」の号令で、1/3が砲側や発射管側などに残り、艦橋や探照灯側等の高い所から眼を皿のようにして海上を見張った。2/3の兵員は配置付近で休憩し、釣床から毛布や藁布団を出して砲側に敷き、横たわって仮眠する者もある。哨兵の交代は2時間か3時間ごとである。
朝になると昼戦配備に移らなければならない。そのため再び「戦闘」と号令し、「水雷防御」の命令で行なった夜戦の準備を昼戦の準備に切り換える。夜戦と昼戦の切り換えにいちいち「戦闘」を令するのも不適切ということで、昭和12年の「軍艦戦闘部署標準」の改正では、軍港にいるときから国交の緊迫に応じて臨戦準備の作業を行ない、次いで合戦準備を行なうことに改められた。これで昼戦の準備か、夜戦の準備を完成するのである。そのため「昼戦に備え」か「夜戦に備え」を号令することにした。そして実際に戦闘を開始する時に「戦闘」の号令を下すのである。
しかし、軍港や前進根拠地を出発してから数日間警戒航行を行い、敵艦隊と数時間後に相見えるとなると、艦内生活の惰性や、索敵行動などのため戦闘準備が乱れている場合が多い。そこで「間もなく戦闘が始まるぞ、用意せよ」の意味で「戦闘用意」の号令を下すことにした。このように私(黛治夫)は、太平洋戦争前、軍艦の戦闘要務が極端に言うと、ネルソン時代からあまり改良されていないのに不満を感じ、戦闘指揮操法から戦闘部署標準に至る戦闘実施の操法や教範類の改正の大作業を志望して一年余りで完成させ、大東亜戦争の二年前には全海軍に徹底、普及したのは幸いであった。
黛大佐の回想はこのとおりだが、戦場では艦長達は乗組員の士気を高めるため色々の工夫をした。予断ながら、そのひとつ。明治27年の豊島沖海戦の時、豪放で有名だった「秋津洲」艦長上村彦之丞少佐は、敵を認めるとすぐ「総員集合」を命じ、自ら乗員の前で「みんな股ぐらに手を当ててみい。縮んでるようじゃあ戦はできんぞ」と大声で奇抜なことを言ったので、水兵達は思わず笑い出し緊張が一遍に和らいだといわれる。人呼んで「伸縮テスト」。
※本稿は、黛治夫著『海軍砲戦史談』(1972年、原書房)の一部を許可を得て転載したものです。