伝統とは良いことをいい、悪いことは陋習というとの使い分けもされるが、いわゆる「海軍の伝統」にも両面があったのだろう。伝統であるからと言ってこれに安住せず、常に謙虚に反省し、より良いものにしていく努力が必要であると思う。伝統を継承する意味とは、この反省と改善の努力なしではあり得ないだろう。考え方、体質の異なる陸軍からの見方はどうだったのか、中村悌次元海幕長(海兵67期)の講演から。
かつて、「大本営海軍部大東亜戦争開戦経緯」が戦史部内の部内審議にかけられた時、陸軍部の分を執筆された原四郎という方が招かれた。原さんは、開戦時は参謀本部の戦争指導班に勤務し開戦に直接関与し、20年3月からは参謀本部の作戦課で本土決戦準備に当たった人物。この原さんが、海軍の体質として指摘したのは、①陸軍とのパリティ、悪便乗、②意志と態度が曖昧、③国民(世論)に迎合、④決意なき前進、⑤決心堅確ならず、常に変更、であった。これは、渋る海軍を引きずって開戦に漕ぎつけた陸軍当事者の偽らざる感想であろう。
まず、「対陸パリティ」については、陸軍と同等の発言権を求めるのは明治建軍以来の海軍の悲願であり、山本権兵衛さんの大変な努力でやっと陸海軍同等になったのは、日露戦争の直前だった。それ以来、陸軍では、海軍が抵抗勢力になるのを嫌う考えが潜在しており、いわゆる「一軍思想」も海軍の抵抗を除くためと海軍では受け止められた。
また、「悪便乗」と「国民迎合」については、海軍は世論におもねり良い子になっておきながら、陸軍がやっと獲得した成果だけはちゃっかり自分も頂くという風に見えたことがあったかもしれない。一つ思い当たるのは、海軍は満州事変には反対で、あまり協力しなかったのに論功行賞では荒木陸相と同じく大角岑生海相が男爵を戴いている。これは、上海事変も入ってのことであろうが、全く悪便乗と言われても仕方がないと考えられる。
その他、②、④、⑤について、一番の誤解のもとになったのは、陸軍の動員と海軍の出師準備の相違であった。海軍では出師準備や作戦準備が所要に応じて何時でも中止復旧、変更できる融通性を持っていたが、陸軍では実行の決意のないまま動員の発動は困難だった。昭和15年11月に発動された出師準備第一着作業は、戦争決意とは別問題として、いわば緊急事態に応じ得る態勢強化のための作業であり、天皇の命により発動されているものの、状況が緩和したら後日復旧することを及川海相も奉答している。なお、第二着作業は、16年11月6日に発動され、こちらは侵攻作戦に直接関連する特別陸戦隊、設営隊、特設燃料廠等が初めて編成可能になっている。
一方、陸軍の作戦準備は、船舶の大量徴用、大規模動員、軍需品の予想戦場方面に対する集積、兵站基地の設定等であり、これらは国内態勢を平時状態から戦時状態に大きく転換させるだけでなく、一度予想戦場方面に集中展開した大軍の撤収には大きな抵抗があるので、国家の戦争決意の確立を待って行なうべきものと考えられており、このような両者の考え方、性格の相違が、不信感のもとになったと思われる。
また、元来海軍では、機動的後方支援が発達し、決心変更が容易に行なわれたが、陸軍は後方が重いことから、一度決心したことは変更しないという習性があった。陸軍は、この海軍の決心変更に度々苦汁を飲まされたと感じていたようである。