降伏調印式
私(富岡定俊(海兵45期))は、終戦時には軍令部第一部長(少将)であった。降伏調印式は、昭和20年9月2日0900から東京湾にある米戦艦「ミズーリ」艦上において行なわれた。私は海軍の先任随員であった。一行は早朝総理官邸に集まって皇居を遥拝、京浜国道を全速力で突っ走り、0600頃神奈川県庁内の終戦事務局分室に入った。ここで武官は長剣を外して無腰となり、小憩の後、埠頭からランチで米駆逐艦に便乗して「ミズーリ」に到着した。一行は重光葵(まもる)全権を先頭に右舷舷梯から上がると舷門で衛兵が敬礼した。上甲板に進むとそこが式場であった。
暫くするとマッカーサー元帥は何の装飾もない略服でマイクの前に現われすぐに演説を始めた。「(略)相対立する思想理念の衝突は一切世界の戦場において決定せられた次第であって最早論議の余地はない。また、我々は相互不信、悪意または憎悪の念を抱えてここに集まったのではない。(略)この厳粛なる機会に、過去の流血と殺戮のうちから信頼と諒解の上に立つ世界が招来され人類の威厳とその最も尊重する念願-即ち自由、寛容、正義に対する念願―の実現を志す世界が出現することを期待する。(略)」演説は僅か三分位の短いものであったが、弁舌爽やかで気品の高いものであった。全代表の調印が終わると元帥は一歩進み出て「平和は回復された。願わくは神これを維持し給わんことを共々に祈ろうではないか」と言い、次いで日本全権団に対して「式はこれで終わった」と宣した。
我々一行は、元のとおり上甲板を降りると東京湾の遥か向こうの空に真っ白な富士が姿を現して、新日本の姿が正しく強くあるべきことを表徴しているかに見えた。戦に敗れ、敗軍の代表として降伏調印式に臨むがごときは軍人として重大の不名誉で、如何なる屈辱を受けるかもしれないと死に勝る思いで出掛けたのであるが、予想はすっかり裏切られた。彼等は少しも勝ち誇った尊大な風はなかった。更に元帥の演説は恩讐を越えて切々として自由と寛大と正義を高唱する高遠なものであった。最悪の屈辱を覚悟していた私は、電撃にあったように本当に驚き、只々深く感動した。
重光外相は、この日「願くは 御國の末の栄え行き 我が名さげすむ 人の多きを」(日本にはこれから幾多の困難を乗り越えて栄えていってほしい。こんな情けない国にしてしまった自分たちの名が多くの人から蔑まれるくらいに立派な国になることを私は願っている) と詠んだ。
皇室の御安泰・原爆研究
終戦と同時に海軍は愈々解体となった。さて何をなすべきか。先ず第一には皇室にどのような累が及んできても血統を保存するため、最悪の場合、皇子又は皇女を擁して、九州高千穂の山奥五家荘に落ち延びる計画であった。それには特攻隊を使うのが一番良かろうと思い、四国で航空隊司令をしている源田實大佐を東京に呼んで計画した。また特攻隊の大尉二名を宮内省に入れた。いざとなったら特攻隊員で皇子(女)を護って東京を脱出し、大阪(淵田美津雄大佐がいる)、四国を経て駅伝式に九州にお遷し申し上げんとするのである。今日からみれば、まことに取越し苦労の沙汰のようであるが、当時としては海軍の最後の御奉公として真剣そのものであった。二年ばかりするともう大丈夫という事になってこの計画は解消した。
第二は原爆の研究である。戦後は原爆を基本として軍事上の大変革の起こることは必至である。そしてかつての敵国に対してはこれを禁止するであろう。しかし、これを打ち棄てておいては将来日本が軍備を持つ場合、非常な立ち遅れをするので、今から内密にその研究を始めておかなければならない。高松宮殿下に御相談したところ非常に力を入れられて、大倉喜七郎氏に取り次いで下さり、大倉氏も死を賭して当たると言って400万円の資金を快く寄附された。その一部は京都大学の湯川秀樹博士の原子力研究に充てられた。ノーベル賞を貰った湯川(素粒子)理論を世界の学会に発表したテキストの印刷代その他の莫大な費用はそれから支弁されたのである。
第三は戦史資料の蒐集である。私は「ミズーリ」の降伏調印式が済んだら自決しようかと思っていたが、ある師から沢山あるやるべき事に目鼻を付けてからでも遅くないのではないかと諭され、四年の戦史を他国の手で歪められたらたまったものではない、貴重な資料が散逸しないうちにと海軍大臣に上申して、海軍省に作戦関係資料蒐集委員会が置かれることとなり、私はその幹事長になった。昭和20年12月1日、海軍省が第二復員省になった時には史実調査部となり、翌21年3月末、私が召集解除となった機会に史実調査部は復員省から独立して財団法人となり今日に至っている。
※本稿は、『帝国海軍提督達の遺稿 小柳資料』(2010年、水交会)の一部を許可を得て転載したものです。