闘魂とはFighting spiritの訳文である。闘志とか闘争精神とかでも結構であろうと思うけれども、攻めることだけを強く奨励しているかのようであるのでわざと闘魂と訳したに過ぎぬ。

 形勢これを許せば攻勢を取ること及び徹底的に戦果拡充を図るのも闘魂であるが、情勢不利な場合にも士気衰えず不屈不撓、自力の温存培養を図り逐次形勢を挽回し最終的に勝利に導いて行く精神こそ、真のFighting spiritというべきであろう。その辺の匂を含ませたつもりであえて魂を使用した。

 秋山真之将軍の書かれた天剣漫録に、「敗けぬ気と油断せざる心あるは無識なりとも用兵家たり得」とある。まことに味わうべき言葉ではないだろうか。これは裏を返すと敗けぬ気が無かったらたとえ有識者であっても用兵家にはなれぬぞということである。中にはなまじ知識があるが為に大事な敗けぬ気、闘魂を消失してしまった例さえ少なくない。

 実戦にあたっては口で言う程やさしいものではない。第2次大戦中、太平洋の海戦においては個々の戦闘や、個艦の奮闘振りまた航空部隊の果敢な突撃等には全く鬼神を泣かしむる壮烈な働きのあった事を承知している。しかし作戦全般の采配振りや戦闘の指導振りには一度喰い付いたら死んでも離れないというような闘魂が感ぜられないのは私一人の先入観によるものであろうか。

 例えば、①緒戦ハワイ奇襲成功後再追撃の不徹底、②サンゴ海、南太平洋海戦において航空作戦終了後の戦果拡充に対する着意の不足、③ツラギ夜戦一撃後の早期引揚げ、④コマンドルスキー島海戦(北太平洋海戦)等における遠距離砲戦の終始と追撃の不足、以上の外、まだ戦術的に成功を収めながら追撃不足のため戦果を充分発揮出来なかった例が沢山あると思う。

 これらは勿論いろいろの理由のあることであるし、また物事は後から批判するように簡単容易なものではない。ましてわれわれの如き若輩があれこれ云うことさえ実はおこがましい事であろう。しかし、われわれが戦史から得られる教訓を素直に受け入れて、将来への戒めとする事は当然の責任であると信ずるが故に敢て言及したまでである。また私は当時の指揮官達が勇気において欠ける所があったなどとは決して思っていないが、それよりも平素の訓練において間違っていなかったかどうかを深刻に反省してみる必要がある。

 日本海軍が英国海軍の教えを受けて日清日露の戦いを戦い抜いた時は恐らく英国流の見敵必戦主義か、あるいは虎穴に入らずんば虎子を得ずという東洋流の捨身の覚悟があったに違いない。ところがいよいよ太平洋上において圧倒的な米海軍と相対峙するようになり、6割の劣勢海軍で対等の戦闘ないしは勝利への道が真剣に研究された。

 その結果、特に精兵主義、精錬主義がとられたことも当然であろう。その外、戦術上また戦略上、画期的な工夫が実施されたのである。例えば母艦機による先制空襲、基地航空部隊による雷撃爆撃、潜水艦による漸滅作戦、夜戦能力の飛躍的向上、大遠距離砲戦(アウトレンジ)等、量の不足を質を以て補う斬新な戦法は非常な成功を収めたものである。しかし、ここに大きな欠陥を植えつけてしまっていたのではなかろうか。それは劣勢であるから1艦でも失ってはならない、あるいは出来る限り損害を少なくしておかないと最終的な決戦において勝利が得られないという考え方が皆の頭に焼き付けられたことである。

 勿論損害は少ないに越した事はないし、また当然の事である。だが激しい撃ち合いの場面に、あるいは戦果の拡充を図るべき重大な時に強力なブレーキの役目を果す。生きて還りたいという本能が全く働かなくなる程聖人化していないわれわれには、無い筈の自己保存本能が格好の理由と仮面を被って蘇生してくる。無用の損害は避けなければならないという用心は、すぐさま持っている人間の弱みと結託してしまう惧れがある。

 皮を切らせて骨を切る、成る程良い戦法であるけれども敵が馬鹿でない限りそんな甘いことがあろう筈はない。皮だけの損害にとどめようとすれば、敵の骨はおろか皮さえも覚束ないのが戦場の習いである。この事が忘れられたのではないだろうか。英海軍はその過ちを出来るだけ少なくするために見敵必戦と云う無謀な事を伝統とした。葉隠に「武士道とは死ぬことと見付けたり」とある。これをよく人命軽視の標本の様に云う人もあるが、実はそうではなく、日頃は常に死に直面する覚悟即ち我執を捨てて奉公すべきであり、戦の場にあっては骨を切らせて必ず敵の骨を切る激しい闘魂を戒めたものと思う。

 旧日本海軍の最も苦心したものの1つは燃料であった。開戦迄に600万屯の貯蔵に成功するのには並大抵の努力ではなかったろう。したがって艦隊の訓練用の燃料等も何昼夜分という強度の枠をはめられていた。最小の燃料による最大の効果が艦隊のモットーとなったのも当然のことといわねばならぬ。ところがこれが高じて燃料過敏症を生み長く洋上に行動する習慣を忘れ、忍耐強く徹底的に闘う精神を失うようになったのではないであろうか。

 無論艦船の設計自体、航続距離を犠牲にして攻撃力の増大を余儀なくされていたとか、あるいは後方支援兵力の整備が不充分であったとか、いろいろ考慮すべき点はある。しかし、もうそろそろ演習中止になる頃だ、燃料が無くなる頃だという意識が日頃の演習でのべつ繰り返されていたらそれが指揮官の判断に影響を与えない筈はない。本当の所、踏み込む事をいやという程稽古しておいてさえその場に臨んで足が竦むものなのである。頃合を見て引揚げる稽古をしておいたり、巧妙なアウトレンジ(Outrange)戦法等を計画していたら気迫のある戦を期待すること自体初めから無理な相談ではなかろうか。

 アメリカ海軍が長い滞洋可能の装備を持ち、また訓練をやっているのは決して燃料消費訓練だとばかり笑ってはおれない。聞く所によると年々自衛艦隊の訓練用燃料は削減される傾向にある由。無駄に使ってよい筈はない。さればといって徹底した訓練方式が取り得られなくなったり、あるいは早々に引揚げる悪い習慣を身につけるようになるとしたらそれこそ「一文惜みの百失い」であろう。「実戦に演習中止はない。戦はこれからだ」という気構をもって演習を指導し、また参加する必要がある。

(板谷隆一「闘魂について」『幹校レファレンス』(昭和36年5月)より)