高木惣吉少将(海兵43期)が語る近代海戦の変革。
オックスフォード大学の戦史教授シライル・フォールスは、主として使用兵器による区別から近代海戦をクリミヤ戦争以後と言っている。陸戦でいわゆる近代戦時代というのは、18世紀終りのフランス革命から引き続く19世紀初めのナポレオン戦争からとするのが普通である。つまり、海戦の方は陸戦に比較して近代戦に入った時期が遅れているのである。
トラファルガー海戦は1805年10月21日で、それまでヴァン・トロンプ、デ・ロイテル(オランダ)、ホーワ、ロドネー、ジャーヴィス(イギリス)、シュフラン(フランス)等、欧州各国の名将によって逐次進歩して来た海上戦法がネルソンで頂点に達し、ここで一段落したという形になっている。
ところが、2年後の1807年フルトン(アメリカ)が蒸汽船を発明した。それまで帆船で戦った中世式海戦から、機関により指揮官の意志どおりに艦隊を操縦して戦えるようになったのは、更に遅れて1861~65年のアメリカ南北戦争からであった。
しかし、南北戦争の7年前に露土戦争のシノペ沖海戦が戦われたのであるが、この時ロシア艦隊は初めて炸薬を入れた弾丸を使って、その炸裂弾の威力でトルコ艦隊を全滅させてしまった。これは近代兵器のため中世の木造艦隊が全く一方的に破壊されてしまった実に画期的な出来事で海上戦における中世と近世との境界を作った近代戦の先駆といえる。
そこでイギリスとフランスが露土戦争に干渉を始めクリミヤ戦争となったのであるが、その時連合艦隊は装甲した「モニトール」を建造してクリミヤの陸上要塞を砲撃するために参加させた。また陸戦でも施条式小銃や元込め式大砲が現われたので、フォールス教授の近代戦の初めとする解釈もここから生れて来るのである。
南北戦争に次いで1866年7月24日リッサ海戦が戦われた。これはオーストリアのテゲトフとイタリアのペルサノ両提督の間に戦われたのであって、勝敗は衝角(ラム)の使用という、すこぶる中世式戦術で決したのであるが、やはり蒸汽と装甲艦による近代海戦であった。
その後の海戦には1894~5年の日清戦争中の諸海戦、1898年の米西戦争におけるマニラ海戦とサンチャゴ沖海戦などがあり、降って1904~5年の日露戦争の蔚山沖、黄海及び日本海海戦等が近代海戦の適例とされている。
中世の海戦と近代海戦との違いはといえば、木造帆走艦時代は作戦行動を予定して科学的な基礎に立つ時間、空間を組織することができないという点であった。従ってネルソン時代までの海戦兵術には兵器及び艦艇の技術的裏付けが、非常に不安定なしかも素朴なものとして与えられていた。丁度中世の陸戦においてはいわば一騎打ちが基本的な形で、それを集めたのが陸上戦であり、有機的な集団の戦闘やそれに必要とされる戦術というものが不安定な、結束の弱いものであったのと同様である。海戦も艦と艦との格闘が基本的な形で、しかも個艦同士の格闘もよく分析すると船の上の陸戦にすぎなかった。
デ・ロイテルやネルソンはそれを集団の有機的な戦術に組織化したけれども動力が風であっては、ある意味、古代ローマの奴隷を漕手に使った時代よりも計画性に乏しい運動力に頼った訳である。大砲にしても射程2~300ヤードという幼稚なものであった。19世紀中葉まで約200年間というもの、海上における技術的進歩は殆ど足踏みの姿で艦艇、大砲、海戦術も17世紀の頃とほぼ同じであった。非常な進歩が現われたのは全く産業革命以後である。
御承知のように、1807年フルトン(米)の蒸汽船、1836年スミス(英)のスクリュウ推進器、1837年モールス(米)の電信機、1866年シーメンスの発電機、1875年ベル(米)の電話、1884年パーソンズ(英)の蒸汽タービン、1893年ディーゼル(独)のディーゼル機関、1896年マルコニー(伊)の無線電信、1903年ライト兄弟の飛行機、1904年フレミング(英)の真空管(二極)、と躍進して来たのである。
ローマ帝国の時代から1700年もの間、ローマから英国への移動には13日間を要していたが、ライト兄弟の飛行機から僅か50年間で10~12時間の航程に変わってしまった。通信は、マルコニー以来大きな進歩を遂げ、今日では全地球上の至る所が通信技術革命によって同時化してしまった。こういう超短波通信と航空工業の産んだ革命的技術が戦争の様相を一変させてしまったのである。
丁度日露戦争の終った1905年に英海軍のフィッシャー元帥が考案した「ドレッドノート」は、すでに周知のような大艦巨砲主義の革命を引き起こした。海戦では(近代)炸裂弾の出現による甲鉄艦の誕生(1858年、仏艦「ラ・グロイセ」)を第一革命、魚雷を活用する潜水艦の出現(1898年、仏潜「グスタフ・ゼーデ」)を第二革命とすれば、「ドレッドノート」の出現は正に第三次の革命であった。
それまで戦艦の標準型は日本の三笠級であり、当時、日露戦争後、いわゆる八・八艦隊を目標として建造計画を進めていたが、この造艦革命のため、「ドレッドノート」と同年に起工した戦艦は一挙に第二線艦に転落したため、やむなく補充計画を立て新規出直しをしなければならなかったのである。
こういう変革期の立遅れは、空軍の現われた時も同様で、既に1917年第一次大戦中に飛行機が戦場に大活動を示したのに、日本では1935年頃、ようやく空軍に対する関心がたかまり、ロンドン会議以後、故山本大将が少将の頃に海軍航空の建設を推進されて、それから真剣に取組むようになった。
これが、戦争の変化とその性格をつかみ、見通しを誤らないことが幹部としては実に重大な結果を産むと強調する所以である。造船革命の波に乗ったのは米独であり、日露戦争前(1903)日本海軍は英仏独伊に次いで第5位であったのが、戦後1908年(明41)には米に追い越されてしまった。
日露戦争後10年、1914年から第一次大戦となり、16年5月末の北海大海戦はいわゆる近代海戦としては最大にして最後のものとなった。翌1917年から本格的に戦場に登場してきた飛行機、戦車及び潜水艦は、戦争をそれまでと違った性格のものに変え、いわゆる近代戦時代から現代戦時代に移ったといえると思う。
(「現代戦争論」『高木惣吉少将講話集』(1979年)より)