海軍の進歩につれ将卒の気分気性も変化してきたと思うが、私(元海軍大将山梨勝之進(兵25))は軍艦の格好に大いに関係があると思う。ネルソン時代は全く帆前船であった。それが蒸気の発明により、帆と蒸気を併用するようになった。それが相当続いたが、その後は全く蒸気専用となった。

 本当の船乗りは帆前でなければ出来ないと思う。我々の候補生の遠洋航海は初代「金剛」で、半汽船であったが、まだまだ帆前船気分は横溢していた。汽走は出入港の短時間で、その外は全部帆走だ。横須賀から豪州ブリスベーンまで73日かかった。動索静索の捌き方からマストヤードの昇降展帆縮帆の作業など、老練な水兵の一人舞台であった。その後段々帆が減り、機械が増え兵器が進歩し、艦の格好が変貌するに従って乗員の気質も変わってきたが、日露戦争までは概括的に云って、運用航海の時代であり、日露戦争後、射撃、戦略、戦術の時代に入っていったと見てよかろう。

 1866年墺伊戦争におけるリッサ海戦では、墺艦隊長官テゲトフは全速力を以って優勢なる伊軍に突撃し、旗艦「ル・デタリア」に衝突して真っ二つに爆破し、敗勢を勝利に逆転して後世までテゲトフ精神を賞賛された。それから日露戦争まで約30年というもの艦隊戦闘はなかった。黄海海戦の砲戦は3,000m位で、近いときは1,800m位になっている。その頃の海戦は取り組む積りで近寄るのだから弾丸の当たるのは当然だ。我々の若い時分には未だラム戦術と云うものがあって、艦内では「衝突用意、伏せ」、続いて敵艦に斬り込んで「カットラス切れ一、切れ二」等という号令でその動作を訓練したものだ。

 その頃イギリスの精鋭艦隊は地中海を横行闊歩しており、仏伊は恐れをなしていた。1893年シリア沖での艦隊運動中の衝突事件は有名である。艦隊は小隊縦陣にて航行中、旗艦「ビクトリア」から両陣列一斉に内方に変針するよう信号があった。「カッパーダウン」では変だと思って今の信号に誤りなきや聞いたところ、間違いなき旨返信があったので両隊一斉に内方に変針し「ビクトリア」は「カッパーダウン」に横腹を突かれて沈没し、死者358名を出した。このときゼリュー(後元帥)はどこかの副長であった。「カッパーダウン」は危険を予期していたのであるが、命令どおり実行したのである。

 当時のイギリス海軍の軍規は斯くも峻厳なものであった。イギリス海軍は昔からシーメンライクと云うことをやかましくいった。艦を綺麗にすること、外容を整えることを船乗りの嗜みとした。艦内点検の時など、艦長が白い羊の皮の手袋をはめてラッタルや棚の上をこすり一寸でも汚れるとこっぴどく叱った。また綱具はいつもきちんと張り、一本でも弛めてはならない。ボートは常に手入れを十分にしてピカピカしている。副長になると官給だけでは到底足りないので自腹を切ってペイント代を払っていたと云うことだ。こんな風で、この時期の海軍といえば艦を綺麗にし、艦を操縦し、上手に重量物を揚げ降ろしする等運用航海の時代であった。

 日露戦争二、三年前山屋他人中佐が海軍大学校で丁字戦法などと云うものを唱えだした。すると秋山真之少佐が米西戦争の従軍から帰ってきて大学校で戦術を攻究した。日露戦争二年ばかり前に対馬沖で大演習が行なわれた。敵軍は山屋中佐が参謀で、佐世保から出て対馬海峡で邀撃配備をとる。友軍は伊集院さんが長官(旗艦「扶桑」)、秋山少佐参謀で隠岐から出て海峡を西に突破するというのであった。この頃から戦闘距離も延び、戦略戦術ということが変貌を顕して来、射撃を重視するようになったのである。 

※本稿は、『帝国海軍提督達の遺稿 小柳資料』(2010年、水交会)の一部を許可を得て転載したものです。