有事の統率ということを考えた場合、特攻の問題や、特攻に言及しないまでも死生の問題に触れざるを得ないであろう。そこで想起されるのは「事に臨んでは危険を顧みず」という服務の宣誓である。
昭和25年に創設された警察予備隊の職員には一般職と警察官とがあったが、「警察予備隊の警察官の規律及び懲戒に関する規則(総理府令)」第7条において「警察官の遵守事項」として、「職務上の危険又は責任を回避してはならない」と定められていた。昭和27年に制定された保安庁の場合、同庁職員は特別職とされ、保安庁法第51条において「職務遂行の義務」として「職務上の危険若しくは責任を回避してはならない」ことが定められた。
自衛隊法においては、一部を除いて非自衛官も隊員となり、保安庁法と同文の「職務遂行の義務」(56条)のほか、新たに「服務の本旨」(52条)が隊員の遵守事項として規定されたが、その経緯は次のとおりである。
自衛隊法の基本となったものは改進党の構想である。改進党防衛特別委員会は、28年10月、「自衛軍基本法要綱草案」を決定し、「自衛軍の精神規定」として、「その所属の隊員は自ら重んずる精神を養い、全力を尽くして国民に奉仕しなければならない」という一項を盛り込んだ。この自衛軍創設構想は、自由党、改進党、日本自由党の保守3党の調整を経て、保安庁当局により29年2月に「自衛隊法案要綱」としてまとめられたが、その検討の過程において改進党は「自衛隊の精神」を法律に明記することを強硬に主張し、これが「服務の本旨」として法案に盛られることになったものである。
改進党の草案では漠然としていた自衛隊の精神規定が「事に臨んでは危険を顧みず、身をもって責務の完遂に努め」というように具体的に表現されたのは適切であったが、本来「自衛隊の精神」とすべきところが「個人の人格の尊重」等を加えたため、隊員の「服務の本旨」に変更され、事務官等も自衛官と同一に律せられることになった。そもそも自衛隊法の第59条及び第60条によって自衛官と事務官等の職務は違っており、任務における生死のような極限の問題を考える場合、疑念なしとしないが、ここでは自衛官の問題として考える。
さて、「事に臨んでは危険を顧みず、身をもって職務の完遂に努め」というのは極めて厳しい表現であるが、法案の審議においては、時間の関係もあってほとんど問題にならなかった。改進党が主張した「自衛隊の精神」とは矛盾するが、ごく普通の意味として書かれたものらしい。そうだとすれば、隊員は、上官の職務上の命令に忠実に従わねばならない(隊法57条)と定められているが、発令者はどこまで命令できるのであろうか。服務の本旨や宣誓を理由に、例えば特攻を命令できるだろうか。
憲法13条には「生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする」と規定されている。近代国家においては基本的人権は憲法以前の権利とも言われている。法律によってもこれを否定することはできない。人命を失うことを恐れていては防衛行動はできない。国家は個人の心構えとして献身を求めているが、十死零生の特攻を任務として課することは考えていなかったであろう。
ところで、隊員現状調査の結果は、防衛出動に対する心構えや愛国心に対する考え方として、中には善良な国民の首をかしげさせる者がいることを示している。このような自衛隊の体質については、積極的に改善を図っていかねばならない。隊員をして「危険を顧みず身をもって責務の完遂に努め」させるものは何か。創立四半世紀を経た自衛隊としては、価値観の多様化している今日、容易ではないが太平洋戦争における経験を無にすることなく指導理念を確立すべきときであろう。いやしくも部下に危険な任務を命令する可能性のある配置にある者は平素からこの問題について考え自分なりの答えを持たなければならないと思う。
※本稿は、寺部甲子男「身の危険を顧みず」『波涛』(昭和54年5月)の一部を許可を得て転載したものです。