勇往邁進の気迫も果敢なる攻撃精神も勝負の世界では必要欠くことのできない絶対的要件である。ただ、これをうちに収めていながら、一撃必倒の間合いまでじりじりと距離を縮めてゆく段階で最も重要なことは警戒ということである。

 この段階では寧ろ臆病ではないか思われるくらいの慎重さが必要なわけである。あるいは無雑作、あるいはもう夢中になって、あるいはただ恐怖の念を打消そうとしてしゃにむに突進したのでは猪突猛進の典型にほかならぬ。もちろん警戒だけで勝負に勝てるわけはないのであるけれども、この警戒の段階を無視する場合に限って、敵の思わぬ反撃に遭うと、今度は決戦段階で右顧左眄するよりも、寧ろしゃにむに敢闘した方が最善であるような重大なときに躊躇逡巡して惨禍を益々大きくしてしまう事があるのは全く皮肉な廻り合せというほかはない。

 警戒とはこれを私なりに情報と自隊の安全確保に区分して考えている。警戒という言葉から来る感じは自隊の安全の方に重点が置かれるように思われるが真に安全を確保するために敵情について知るところがなければまた偵知の手段を構じなければ警戒の万全は期し難い。情報は自隊安全だけでなく作戦全般を通じ、また積極的な作戦の場合は更にこれに応じた規模を要求されるのであるが、その場合でも警戒に寄与しないという要因は1つもない。まして対情報に至っては自隊の安全に不可欠のものである。

 西洋兵学の“Principles of war”(戦争の原則)の項目中には警戒という事は特にうたわれていない。しかし情報の重要な事、大切な事は如何なる本の中にも必ず強調せられているし、また凡そ兵術を論ずる者にとって、これは基本的知識といても差し支えないであろう。孫子の「敵を知り己れを知らば百戦あやふからず」とは洋の束西を問わず引用せられる名句であって、今後も長く尊重される真理であろう。

 自隊の安全に関する事項はSecurityとして各国各軍に採用され強調されている。敵の奇襲を防衛し、我が攻撃力発揮の時機までその戦力を温存し、また我が企図を秘匿して適当な問合いに到達することをSecurityという簡単な表現を使っている。これの具体的実施は作戦の様相、その時の情勢、彼我の兵力に応じて決定されるもので、ここで一概に述べ得るものではない。ただ言えることは自衛の安全の為に過大の兵力を充当することは兵力の経済的使用の原則からいっても避けるべきであろう、と言って警戒兵力の出し渋りが参加のげんいんとなることもよく戦史の示すところである。従ってその調整は一に指揮官の健全な判断力にかかっているという外はないのである。

 私はレイテ海戦の時、南方スリガオ海峡突入部隊の「阿武隈」に乗艦していた。私の直接の司令官は木村昌福当時少将であった。1水雷戦隊旗艦で志摩中将の麾下として5戦隊に続行していたのである。その前方2~30浬には「扶桑」、「山城」を基幹とする艦隊がスリガオ水道に向って突っ走っていた。司令官は私を捉えて艦橋で「レイテ湾の敵はどうなっているか」「敵状は誰が偵察して知らせてくれることになっているのか」と尋ねられた。

 私はそれは我々以上の司令部が考慮することだと思います。また航空部隊も今敵機動部隊は対する作戦で余力はないのでしょうと答えた。事実私は「ただもうレイテ湾内で討死すればよいのだ」と心の中で決めていたくらいであった。その時司令官は「敵を知らないで闇雲に突進するのは君、戦争じゃないよ」と温顔の中にも苦悩とも思われるような言葉を洩らされたのを思い出す。

 ともすればわれわれの通弊として偵察とか哨戒とかいう縁の下の力持ち的な仕事を敬遠して見たり、一見無駄とも思われるような警戒上の重大な敷石を見逃したりすることは結局取返しのつかない過失を生むものであることを十分に戒しめる必要がある。

 以上警戒の重要性を強調して来たのであるがこれを強調すると突進の行き足が鈍化しはしないかという疑問が起ってくる。事実警戒と積極性とは両立し難い傾向を持っている。特にたださえ畏縮し易い戦場心理において、慎重は消極へ、消極は退嬰へ、退嬰は自滅へと行く危険がないでもない。だからと云って警戒を軽んじてもよいという逆説は成立しない。初めに書いたように内に果敢な闘志と、使命達成への熱情を蔵しながら、外に寸毫の油断も無く自隊の安全と敵状の偵知に努めて作戦を指導して行くという至難中の至難な芸を完成することが指揮官の責任であるといいたいのである。

 部下なり幕僚が慎重論であり警戒的であったら指揮官は闘志において欠けるところがないかチェックして見ることを推奨する。指揮官が積極的な意見を持っているときには幕僚なり部下は警戒について手落ちがないかどうかをよく補佐することが大切である。それは反対のための反対という天邪鬼的筆法からではなく上記の至難な芸に少しでも近づこうとする努力の現れと見るのが本当であろう。

 最後に、警戒は特にこれを誇示する事によって敵の行動を牽制する場合の外は、敵に探知されないのを上策とする。昔から「みそのみそ臭きは上等のみそに非ず」とある。備えあって備え無きが如き姿が理想である。しかし凡人は凡人として初歩のところから修練することが絶対に必要であって、いきなり名人の真似をすると大怪我をする。

 織田信長が桶狭間で今川義元を討ち取った合戦のその前夜、清州の城で軍議を開いた。結局籠城を捨てて野戦をやることに判決を下したが、そのまま奥に引込んで仮睡をする。夜中の2時頃起きて粥をすすって身支度をして、いきなり出陣の令を下して飛び出す。その間に「人生僅か五十年…」の敦盛の謡曲を謡い且つ舞ったともいわれている。私はこの話を聞いて初めは英雄とは落ち着いたものだとか、あるいは死を決した人の素晴しさ等に感服していたものである。

 ところが今考えるとその幼稚さに気がつく。他から見ると英雄閑日月ありという具合に見えるが恐らくこの間に物見その他の手段によって敵の本隊の動静の偵知に全力を尽しておったに違いない。また彼は自隊行動乃至自分の企図を秘匿するためにわざと出陣を下令せずまたその予令も出さず突然の出発をしたのであろう。Intelligence(情報)とSecurity(安全)の原則を自然のうちに実践して悟られることがない正に名人の姿であるといえないだろうか。謡曲を謡ったり、あるいは従う者数騎に過ぎず等という無茶な出陣振りに感心する事なくその奥、その裏に隠された苦闘努力に対して認識する必要があろう。

(板谷隆一「警戒について」『幹校レファレンス』(昭和35年7月)より)