私(元海軍中将清水光美(兵36))が少尉で秋山真之大佐が艦長の「橋立」航海士であったとき、「聯合艦隊解散の辞」について「どうしてあんな名文が出来たのですか」と無遠慮にお尋ねしたことがある。

 秋山艦長は、「名句名文などと云うものは無雑作に出来るものではない。平素から読書の間に名文句に出会ったときは、これを書き留めて整理していた。土井晩翠のような詩人でも、昔からの名句をカードに抜粋して引出しに分類保存してあり、例えば月夜の景色を詠まんとすれば、その部のカードをパラパラめくっている間にヒントを得るようにしていたそうだよ」といわれた。

 次は私が飯田久恒中将(日露戦争の時の聯合艦隊参謀)から直に聞いた話だ。

 「日露戦争が済んで聯合艦隊が伊勢神宮に凱旋報告参拝をした後、秋山参謀に「観艦式当日には長官の訓示が要りますね」と云うと、うんと軽く頷いておられたが、東京湾に回航すると上陸したきり帰ってこない。忘れているのではないかと心配になり、四苦八苦して何とか起案をしてみた。押し迫ってから漸く秋山参謀は帰艦したが、これを見せると「アアあれか、あれなら乃公(だいこう)が書いておいた」と出されたのがあの有名な聯合艦隊解散の辞であった。私は冷や汗をかいた。」

 秋山さんはこの訓示は永く後世に残るものだと重視し、推敲に推敲を重ねたものと思う。長く艦に帰られなかったのも、上京中知己の学者に諮って練りに練っていたのではあるまいか。秋山さんは不世出の天才であったと同時に非常な努力家で、自ら習得したものはよく整理して次第に累積長養されたもので、彼の名戦術も名文章も決して偶然の産物ではなく努力の結晶と思う。短い間ではあったが、私は艦長付として秋山さんに仕えたことは、私の四十年の海軍生活中最大の教訓で今に感銘している。私は練習艦隊司令官になってからもよく当時のことを思い出して候補生の訓示に引用した。

※本稿は、『帝国海軍提督達の遺稿 小柳資料』(2010年、水交会)の一部を許可を得て転載したものです。