私(元海軍中将戸塚道太郎(海兵38期))は、昭和20年5月横須賀鎮守府司令長官にかわった。8月13日呼ばれて上京すると、米内大臣から「連合軍は真っ先に横須賀に上がってくるかもしれない。お前の持前を発揮してよろしくやってくれ」と言われ辞去するときには、わざわざ先に立って自らドアを開き「ご苦労だなあ」と言葉をかけられた。私は甚く感動し、急いで鎮守府に帰り終戦に対する諸準備を進めた。

 15日の御放送の後、次のような訓示をした。「戦に負けたと云って卑下してはならない。ランクは世界共通のものだから、ランクランクに応じて、対等に堂々とやれ。そしてアメリカの立場に立って積極的に協力せよ。しかし、どこまでも胸の中には昂然たる意気を持て。卑屈になってはいけない。向こうの立場で進んで仕事をやることは、彼等の引揚げを早める近道である。大命は既に発せられた。もし大命に反対し、あくまで抗戦を継続せんとするものがあれば先ず私を刺した上でやれ。」

 余談ながら、米軍進駐後アイケルバーガー中将が杉山元帥を官邸に訪ねたとき上席を勧めたところ、彼は「あなたは元帥、私は中将である。ランクは国際的に決まっているので私はあなたの上席に着く訳にはいかない」と固辞し、それではと上座を空けて両人差し向かいで話したと聞いた。床しいことと思う。

 8月30日横須賀軍港接収部隊は、巡洋艦「カーライル」で小海岸壁に入港し、岸壁において降伏式を行なった。式は艦隊参謀長に敬礼し、降伏状を提出しただけであった。5、60名の新聞記者が盛んにカメラを差し向けていた。ところが、終わって帰ろうとすると乗ってきた車の代わりに汚い自動車を提供してこれで帰れと言う。どうせ下っ端のやったことであろうが、忌々しく思った。

 鎮守府司令部は三笠会館に引っ越した。その後は大体順調であったが、数日後の深夜、至急の電話を受けて鎮守府に呼ばれて登庁すると、廊下にはピストルを上に向けて衛兵がズラリと並び、長官室には司令官バジャーが座って、私は法廷に呼び出されたような恰好だ。癪に障ったので、わざと横っちょに腰を下ろした。バジャー曰く「今夜米軍司令部に夜襲を掛けると云う噂がある。どうしたことか。」そんな用だったのかと私は呆れて「全くのデマだ。私は長官として部下を統率し、不祥事の起こらぬ様命がけでアメリカ側に協力しているので一切心配無用である」ときっぱり言ったので、やっと安心してもらったようだった。これは一例で、彼等は風声鶴唳(ふうせいかくれい)にも神経を尖らしていた。戦場における日本軍の斬り込みに余程痛めつけられたものと見える。

 機動部隊の指揮官スプルーアンスは温厚な男に見受けたが、ハルゼーはブッチャー(牛殺し)と仇名されただけに中々剽悍な男のようでもあり、無作法な男であると見た。この男が上陸して鎌倉ホテルに入ってきて自分で私室のマンドリンを持ち帰ったと宿舎の日本人から訴えてきたこともあった。

 閣議で軍需は民需に転化し適当に処置して良いことに決まったと海軍省から通知して来た。そこで復員する軍人には衣嚢に詰めて持てるだけの衣糧品を分けてやり、公共諸団体にはそれぞれ役に立ちそうな軍需物資を譲渡した。物資の処理について特務士官には若干違法者も出たが士官にはなかった。水交社には色々貴重な品物があったが、これは売り払って金に換えさせた。

 9月の半ば頃、バジャーが相談に来てくれと迎えのジープを三笠会館に差し回してきた。長官用の車は既に取り上げられていて、炎天の日であったが長官はジープには乗らぬ。私は白の軍装に略綬を付け、白手袋に威儀を正して歩いて鎮守府に出向いた。庁舎前には多数のカメラマンが待ち構え、敗軍の将がジープから降りて来るみすぼらしい姿を撮ってやろうとの魂胆であったろうが、逆に私に裏をかかれた。私はかねがねランクは国際的のものである、卑下するな意気昂然とやれと戒めていたが、この日も自ら範を示した訳だ。

 横鎮長官の官邸は敷地が3,000坪もあり、山あり森あり広大なもので、邸内の絨毯、ピアノ、置物などの調度品は豪華なもので有名であった。アメリカ軍が進駐すればどうなってしまうか解らないので幕僚が色々心配して市や学校に譲渡してはどうかと申し出てきたが、昔、大石良雄が赤穂の城を明け渡したときの故事にちなんで官邸は一物も動かさず現状のまま引き渡した。アメリカの長官は官邸に乗り込んでビックリしたそうだ。

 その後米軍司令官がバジャーからデッカー代将に代わって、翌年新司令官から官邸に招待されたことがある。行ってみると驚いた。立派な品物は全て無くなっていた。そこで「私が官邸を引き渡したときは、占領軍に礼を尽くすため、調度品は一切そのままにしてあった。今日この現状を見てビックリした」と率直に言うと、細君は痛く恐縮して「まことにお恥ずかしいことだ。これは全くスーベニヤー・ハンターの仕業である」と溜息した。

 アメリカ陸軍部隊は海軍より1週間ばかり遅れて、その先発隊が三崎に上陸した。柚木参謀がこれに立会い、帰ってからの話に「陸軍部隊指揮官は、ガダルカナル以来大隊長として各地に転戦した男だが、日本軍隊はまことに強い。こんな強い軍隊は世界中にない。もしアメリカが日本本土に上陸を決行したら愈々最後だと覚悟していた。しかし、原爆のお蔭で一命を全うして無事上陸が出来たと盛んに日本軍隊を礼賛し、煙草を出し椅子をすすめて慇懃に応対してくれた。こんなに面目を施した事はありません」ということであった。

 これは前線の闘士にして初めて出る言葉だ。私は日頃実戦の経験のない幕僚は駄目だ、戦の本当の呼吸が分からない、紙の上の計画に堕し易い、これでは軍隊は動かないと思っている。上級指揮官たるものはここをみてやらなければならないと思う。

※本稿は、『帝国海軍提督達の遺稿 小柳資料』(2010年、水交会)の一部を許可を得て転載したものです。