昭和20年11月30日、明治5年2月に設置されて以来、満73年9ヶ月で海軍省が廃止された。阿川弘之著『米内光政』(1994年、新潮社)に描かれた海軍省最後の日。
米内は、「三年有余の苦闘遂に空しく征戦すでに往事と化し茲に海軍解散の日を迎ふるに至れり。顧みれば明治初頭海軍省の創設以来七十余年、この間邦家の新運と海軍の育成に尽瘁(じんすい)せる先輩諸士の業績を憶ふ時、帝国海軍を今日において保全すること能はざりしは吾人千載の恨事にして深く慙愧に堪へざる所なり」という海軍大臣談話を発表した。(略)
陸軍省では正午高等官食堂と大講堂で盛大な解散式を挙行したが、そういう表立った行事は何も行なわれなかった。集まった省部関係者を前に、米内は、「諸君、今後日本の復興のためにどうか御尽力をお願いしたい」とごく短い挨拶をしたに留った。米内さん、もっともっと積る思いが山ほどあるだろうにと、聞く者皆が思ったという。
翌日、彼は宮中に召された。お別れの言上をする米内に、陛下は、「米内にはずいぶんと苦労をかけたね。これからは会う機会も少なくなるだろう。健康に呉々も注意するように。これは私が今さきまで使っていた品だが、きょうの記念に持ち帰ってもらいたい」と、筆も墨も未だ濡れている硯箱に手ずから蓋をして渡された。蓋には、二羽の丹頂鶴に菊の小枝をあしらった金蒔絵がほどこしてあった。硯箱を持って廊下へ退出するなり、米内は声を殺して泣き出した。
前掲書によれば、海軍の解体にあたって、米内が保科善四郎(中将)海軍省軍務局長に遺嘱した事項が三つあった。
第一は、陸海軍の再建をかんがえること。保科は新海軍建設を図るために米海軍との知己の多い野村吉三郎(大将)と長年努力し、自らは衆議院議員を4期努めた。
第二は、日本でも最も優れたものの一つであった海軍の組織と伝統をどうやって築き上げたか後世に伝え残すこと。戦争に勝っていれば吉川英治が長大な海軍戦史を書くはずになっていたが、再三の要請にもかかわらず、結局死去するまで筆を執ることはなかった。
第三は、海軍の持っていた技術を日本の復興に役立てる道を講じること。これは、鉄道技術研究所、電電公社の電気通信研究所をはじめ、造船関係、燃料化学関係の各社、日本光学、新興のソニー(会長であった盛田昭夫は終戦時海軍技術中尉)、ダイキン(もと大阪金属株式会社、艦船の冷却装置担当)、諸種エンジン・メーカー、日本製鋼所、小松製作所等々の企業が、言われなくても自ら戦後の復興に尽力したことは周知のとおりである。