2015年4月、天皇、皇后両陛下は戦後70年の戦没者慰霊の旅としてパラオ共和国ペリリュー島を訪問された。日本は太平洋戦争に敗れるまでの約30年間、現在ミクロネシアと呼ばれる600を超える島々を軍事占領及び国際連盟の委任統治領として実質的な領土として支配したが、「楽園」といわれたこれらの島々は太平洋戦争で玉砕、集団自決の悲劇の舞台となった。

 南洋の島々が北の満州と並ぶ「海の生命線」と呼ばれていたこと、戦略上は満州よりはるかに重要な位置にあったことは、日本人の記憶から消えてしまっている。井上亮著『忘れられた島々「南洋群島」の現代史』(2015年、平凡社新書)に太平洋の戦いにおける日米の戦略の起源を振り返ってみる。

 1775年に、本国英国のロイヤル・マリーンズを真似て創設された大陸海兵隊(Continental Marines)は、当初は兵隊が集まらず、居酒屋の酔っぱらいを無理やり入隊させたという。初代の司令官はニコラスという居酒屋経営者だった(野中郁次郎著『アメリカ海兵隊』(1995年、中公新書))。存続が危ぶまれ続けた海兵隊の転機は1914年の第一次大戦で、アメリカは1917年に参戦し、海兵隊は欧州で勇戦し、その存在を認められ成長したものの、戦後は再度縮小された。

 1919年に西部太平洋のマリアナ、カロリン、マーシャル諸島は日本の委任統治領となり、ここに日本海軍の前進基地が造られれば、勝者のアメリカの前進基地であるグアムとフィリピンを側面から脅かし、更にはハワイへの補給路を寸断できる存在となることになった。後にニミッツは日本が統治する南洋諸島を「太平洋に張られた巨大な熱帯グモの巣」と呼んだ。

 このアメリカにとっての戦略的不利を好機と捉えたのが海兵隊のエリス少佐であり、1921年「ミクロネシア前進基地作戦行動 (Advanced Base Operations in Micronesia)」をまとめ、太平洋での戦いは、日本が支配する島々を一つずつ奪取してゆく戦いになるとし、水陸両用作戦のための海兵隊の変革と増強の必要性を説いた。このエリスの考えは、太平洋戦争における海兵隊の作戦構想(作戦計画712D)となり、1924年に承認された新しい対日作戦計画オレンジ・プランに包含されることになった。

 日本は1907年の帝国国防方針で初めてアメリカをロシアに次ぐ仮想敵国に設定するが、対露戦必勝を期す陸軍と異なり、海軍にとってアメリカは建艦予算獲得のための「便宜的仮想敵」あるいは「兵力整備標準国」であった。しかし、日本が南洋諸島という「領土」を得て対米戦へと傾斜していったのと同時に、アメリカもまた植民地フィリピン防衛のため日本との衝突を想定するようになった。

 1922年のワシントン海軍軍縮条約、1930年のロンドン海軍軍縮条約を経て、日本は日露戦争の日本海海戦の成功体験を基づき、「漸減邀撃作戦」と中核とする精緻な対米戦略を練り上げていった。日露戦争後、決戦水域は沖縄諸島を前進基地に、小笠原諸島付近と想定されていたが、南洋諸島を獲得したことで、決戦水域はどんどん東へ移動していった。井上は、エリス少佐のアイデアで戦略を変革させた米国と漸減邀撃構想から脱却できなかった日本海軍について次のように述べる。

 「オレンジ・プランと漸減邀撃作戦はコインの表裏のように符合していたのだが、エリスという天才戦略家の出現でズレが生じた。日本海軍は大艦巨砲主義から脱却できず、主力艦同士の決戦が勝敗を決すると考えていた。そのため南洋諸島の島々はあくまで航空機や艦船の進攻用基地であり、要塞化するという発想が乏しかった。

 一方エリスの革新的な水陸両用作戦は島の争奪であり、飛び石伝いに日本本土に迫るものだった。水陸両用作戦という革新的戦略で、海兵隊の目は陸(島)と海両方に向いていた。日本海軍の目は海上にしかなかった。委任統治の縛りにより島の要塞化を早くから行えなかったこともあるが、そもそも日本海軍はその重要性に気づいていなかった。そのギャップは太平洋戦争での戦いで日米の決定的な差となって現れる。」

 1933年、満州事変をきっかけとした日本の国際連盟脱退宣言(発効は35年)をきっかけに、連盟から統治を委託されている南洋諸島の受任国としての資格を失うのではないかとの声が上がり、海軍は、陸軍の「守れ満蒙 帝国の生命線」に対抗して「海の生命線 我が南洋諸島」というキャンペーンを始めた。海軍省監修の映画「海の生命線 我が南洋諸島」の最後で「もし仮にある外力がこれを握りしめたらどうなるか。海正面の守りは根底から揺るがなければならない。南洋の制海権は失われる。まさにわが帝国、国難に瀕するのときであります」と語気を強めて語られている。

 海軍省が発行した啓蒙冊子『海の生命線』(1933年)の中で、海軍大佐の武富邦茂は、「南洋諸島が不幸敵に利用されたら、飛石伝いに敵は我本土を近寄るであろう。その時は、西太平洋から帝国海軍の威力が失われるであろう。砦が陥り壕が埋められては本城は到底持ちこたえることが出来まい」と書いている。

 この不吉な予言は11年後に現実になるのだが、これはまさにエリス少佐が練り上げたアメリカ海兵隊の戦略である。また、この冊子には「海の生命線」の主張が陸軍への対抗心によって引き出されたことが透けて見えるような武富大佐の言がある。

 「満州が北方陸正面における国防第一線であるならば、南方海正面においては、南洋群島が国防第一線でなければならぬ」

 国家総力戦だった第一次大戦の戦訓は真剣に拳々服膺されず、日本海軍は一昔前の日露戦の感覚で戦争を始めたといわざるを得ない。対して、アメリカのオレンジ・プランは、島伝いに日本本土に迫り、島国日本を海上封鎖する消耗戦、国家総力戦そのものだった。

 等松春夫著『日本帝国と委任統治』(2011年、名古屋大学出版会)では、「海の生命線」南洋諸島のもたらした災厄を次のように分析している。

 「米国は南洋群島における日本の軍事的意図と準備を過大に評価し、日本もまた南洋群島に対する米国の野心を疑った。ハワイとフィリピンをつなぐ米国の連絡線を遮断する形で広がる南洋諸島の地理的位置が、このような日米の相互不信を不可避なものにした。」「国際連盟脱退後も日本を連盟につなぎとめていた南洋諸島は、逆にナチス・ドイツとの同盟の方向へ日本を動かす要素となっていった。」

 井上は、「防衛線をできるだけ本国より遠ざけたいという本能が他国との衝突を招き、「生命線」は国家を丸焼けにする「導火線」になってしまった」と結論づけている。

 11/8に「トランプ再選とディエゴ・ガルシア島」を投稿したが、「自由で開かれたインド太平洋」を論じるときに、まず太平洋とインド洋の島々の戦略的な位置づけ、経緯を知ることは大前提だと思う。