慶応4年3月(9月に明治に改元)、新政府の初の軍事組織の統括者として軍務官が置かれた。当時の日本には、ロシアの北方からの圧力があり、また隣国清国への英仏等の侵略から次は日本への強圧を予想させるものがあった。このような中、同年5月、軍務官から太政官宛「四面環海の我が国防のため海軍力強化が急務」との建議が提出され、これを受ける形で10月、「海陸軍建設の儀急務」との沙汰が出され、海軍建設優先の考え方が示された。翌明治2年7月、太政官制の改革で軍務官制に代わり兵部省が置かれたが、翌年3年3月には同省から「おおいに海軍を創立すべきの儀」なる建白書が太政官宛に提出された。

 当時の海軍は、輸送船3隻を含めても艦船僅か17隻、人員1,800名で微々たる海軍力であったが、これを歳入の1/8を20年間支出して、「軍艦大小合わせて200隻、常備人員25,000人」の海軍の整備を図るべきものとする壮大なものであった。

 兵部省は明治5年に海軍省と陸軍省に分離するが、その1年後の明治6年に海軍卿勝安芳(海舟)から陸軍の増強要請に先んじて、甲鉄艦26隻を含む104隻の建艦等の計画が太政官に提示された。これを受けて左院(後の元老院、当時の立法府)は、「国防軍建設の要諦は専ら海軍を拡張するにあり、陸軍はこれに次ぐ」として海主陸従論を展開した。

 このように海軍建設優先の願望は根強いものがあったが、当時の財政状況は、明治4年の廃藩置県後の後始末のための支出、戊辰戦争のツケの清算等で財政上の余裕はなく、かつ、新政府としての権威と中央集権確立のため、先ず国内治安の確立が重要との認識から陸軍の整備を優先すべきとする意見に集約されていった。また、陸軍には大御所西郷隆盛、山縣有朋をはじめ大山巌、西郷従道等多くの錚々たる人材がいたが、海軍にはこれに匹敵する人材は皆無に等しい状態だったことも大きく影響したであろう。

 更に、海軍が、国土が島国で地勢的に似ており、新政府との関係が良好で、特に海軍の薩摩が親密な関係を構築していた英国式を採用した一方で、陸軍は、幕府時代の仏国式から普仏戦争でのプロシア大勝を受け、漸次独国式に変わっていった。海洋国家思想に立つ海軍と大陸国家思想に立つ陸軍の誕生という戦略思想の異なる軍事組織が誕生し、しかもすでに海軍より組織、予算において優っていた陸軍が、明治5年の陸軍省、海軍省分離の機会を捉えて「陸海軍官員順序の儀これまでまちまち…、今後陸軍を上とし海軍を下にし」と上申し、2月27日の省分立に合わせ、「海陸軍」も正式に「陸海軍」となった。

 後に官房主事として山本権兵衛大佐が登場して高度の政治感覚と卓越した技術感覚をもって海軍建設に活躍するのは明治24年のことであり、明治5年の段階では、彼は海軍兵学寮生徒であった。「大に海軍を創立すべきの儀」等に始まる「海陸軍」も僅か4年でその幕を閉じた。当時の実態からしてやむを得ないもので、そのことで海軍の栄光に影が差したとは思わない。

 海軍が陸軍に対し堂々と胸を張れるようになるのは、日露戦争以降ではなかろうか。その一つの証左として、日露戦争後の明治38年10月23日、横浜沖の凱旋観艦式で、初めて明治天皇が海軍大元帥の制服で臨幸された。それまでの臨幸は陸海軍を問わず常に陸軍の制服であった。山本海軍大臣の奏上であった。これも当時の海軍の実力と日露海戦における実績のなせるものであろう。

 明治初期から僅か30年、当初の空廻りに切歯扼腕した時代を乗り越え、明治20年頃から「実廻り」にして日清・日露戦争を戦い、遂に世界の強国に列するに至ったのである。

※本稿は、常廣栄一「「海陸軍」が「陸海軍」になった日」『水交』(平成20年3・4月)の一部を許可を得て転載したものです。