「海軍グルメ」というが、はじめから美食を追及したのではなく、西洋先進国海軍に追いつこうとした努力は健康な兵食づくりにもあった。明治海軍は(陸軍もそうだったが)栄養障害のため人の力が発揮できなかった時期があるという高森直史氏の話。

 西南戦争では白米を偏重した陸軍に脚気患者が多かったが、海軍では西南戦争が終って整備が進むほどに脚気が目立ってきた。明治15年7月に京城で起きた壬午事変では朝鮮の宗主国清国と一触即発の危機となり、日本政府は軍艦「金剛」「日進」「天城」「比叡」「清輝」などを仁川に派遣させた。ことあらばと腕をさすって出動待機していたといえば頼もしいが、大半の兵員が脚気のために動くこともままならず、ぐったり寝ていたのが実態だった。知られるとまずいというので、いくらか元気な者を上甲板に集めて体操させたり無理に相撲をとらせたりして士気旺盛なふりをして40数日をしのいだ。幸い砲火を交えるに至らず、外交でひとまず解決したからよかったものの、戦闘になったら半病人だらけでとても勝ち目はなかった。西洋料理なら健康にいいと考えるようになったのは、試行錯誤の末に脚気から脱却できてからである。

 しかし、最初は怪しげな「西洋料理」だった。兵たちは、パンはおやつだと思っているからやたらに砂糖をつけて食べるが、「おやつばかりで、いつまでたっても飯が出ない」とボヤいてばかり。これでは戦力にならない。そこで西洋料理ならフランスに習え、ということになって本格フランス料理を勉強するようになった。フランス料理も、革命で失職した宮廷料理人たらが市民相手の店をあちこちに出したことから広まったように、文化は思わぬことから発展するものである.海軍グルメの原点は脚気対策にあり、とするのが私見である。

 「もっとうまいものを食わせろ」、「先進国に負けない西洋料理をつくれ」。そんな要求があったかどうか証拠はないが、「最高レベルをめざせ」という部内のニーズが主計分野のプレッシャーになっていったことは想像できる。上級者たちの無理な要求がいたしかたなくグルメに傾倒して入ったと見ることもできる。しかし、無理だと思われる要求がなければ何事も進歩はない。おかげで海軍料理は高度に発達した。

 明治41年の教科書「海軍割烹術参考書」には、民間では特定の階層しか西洋料理に接することのできない時期に「シャトーブリヨン・ヲランニエール・ビアンネールソース」など読むだけで疲れてしまうような西洋料理の作り方が出ている。日本海海戦完勝直後とはいえ、海軍兵たちにどこまで教えていたのか、教官、教員はどれほどの料理に通じていたのか大いに関心があるところである。大型汁しゃもじ(スプーン)も「スッポン」と耳で聞いたとおり呼称していたころである。蛇足ながら、「スッポン」は部内用語として定着し、海上自衛隊でも海軍出身の4分隊先任などが使っていた時期がある。

 昭和初期に軍艦「出雲」が艦上昼食会をしたときのメニューが残っている。前菜はサーモンと洋野菜のテリーヌ、あとに続くのはアスペラガース・スープ、鱒蒸煮、シチュード・チキン、ローストビーフ、レモンシャーベット、タピオカプリンの7品。このフルコースのメニューには、明治海軍が西洋文化に融合しようとした真剣な姿が感じられる。これだけでは「海軍はいいものを食べていた」という印象だけが残りそうだが、昭和期の、それも国内外情勢がいよいよ悪化してきたころはどうだったのか。

 昭和海軍が開戦必至を予想して作った兵食に適する実用的献立は、昭和14年発行の『第1艦隊献立調理特別努力週間献立集』に見ることができる。この献立集は第1艦隊が料理コンテストをおこなって戦時に備えた実用的献立をまとめたもので、第1艦隊司令部昭和14年10月発行となっている。第1艦隊司令長官はこの時期連合艦隊司令長官も兼務していた山本五十六中将(翌年11月大将)だった。注目したいのは、なぜ第1艦隊・連合艦隊付属の艦艇に対して献立競技をやらせたのかという理由である。

 献立集の序文に連合艦隊主計長兼第1艦隊主計長横尾石夫主計大佐(海経2)がいみじくも書いている。要約すると、「海軍兵食は近年著しく改善され、もう行き着くところまできた。艦隊の調理技術も高い。しかるに、支那事変以来糧食調達に制限が出つつある。今後は給糧艦「間宮」による補給も厳しくなることが予測される。これからは効率的な食事を支給するにはどうすればいいかを真剣に検討しなければならない。昨年来各部隊で研究した献立の中から推挙できる料理をまとめたのが本献立集である」という主旨である。ここらで軌道修正して兵食の基本に帰ろうというのだからたいへん良識的で、主計サイドからは勇気のいる発言でもある。

 当時は鯨、兎も食用が推奨されており海軍は進んで調達していたが、「隠戸炊」は材料が鯨肉で、給油艦「隠戸」考案の献立。「兎肉の甘酢煮」はどちらかというと中国料理に近い戦艦「伊勢」の料理、シャケの缶詰を使った「貯魚のコロッケ」は戦艦で昭和15年に標的艦に改造される「摂津」が考えた料理である。

 昭和のレシピは、ほかにも「大鯨麺」とか「金剛風南蛮時雨煮」など艦の名を冠した実用メニューが多くあって興味がつきない。いわゆるグルメとはかけ離れてはいるが海軍料理の応用が随所にうかがわれ、明治以来の料理技術が質の高い兵食としてできあがった姿を見ることができる。

 海軍はグルメに走りがちになった現状を軌道修正し初心に帰ろうとしたことを書いたが、「海軍は贅沢なものを食べていた」という巷間の先入観が変わるまでまだ時がかかりそうである、と高森氏は結んでいる。 

※本稿は、高森直史「海軍グルメの復元」『水交』(平成19年9・10月)の一部を許可を得て転載したものです。