海軍のことについては、様々な「伝説」が巷間伝えられているが、海軍料理研究家高森直史(本名=日浦直史(幹候15期))氏は以下のように述べる。
海軍の食事といえば、すぐにグルメを連想する人が多いようである。いまでは伝説的になって、軍艦での食事はナイフとフォークのフルコース、司令長官ともなるとうしろで軍楽隊の生演奏…そういうものである。 これが、軍楽隊の訓練の仕上げと乗組員への慰労も兼ねての上甲板での演奏だったことは知られていない。
その実態を知る主計兵や従兵だった人も少なくなった。下士官兵だった人はもとより、終戦間際の短現で海軍に入った初級士官だった人でさえ、「そんな場面は一度も見たことがない。ましてナイフとかフォークで飯を食わしてもらったことなど全然ない。ウシオ汁といっても鯛の吸物ではなく、ウロコがついたままそこらの魚を頭や骨ごとぶち切って釜に入れたウロコ汁だった」と自嘲気味に語る。
もっとも、こういう人は戦況が厳しくなった頃の海軍在籍者で、とてもグルメに出あう機会などなかったというのが本当らしい。兵学校でも昭和18年に卒業した作家豊田穣氏の著書『江田島教育』(新人物往来社)では恒例の卒業前のテーブルマナー科目を楽しみにしていたところ、スープの代わりに水が出て、「スープだと思って飲め」、メインディッシュの肉も、「ビフテキがあると思って演練をやれ」ということで、何もない皿の上でナイフとフォークを使ったフルコースだった、とある。「手続きのみ」でもやらないよりいい。むしろ、戦況がはかばかしくなくなっても洋食マナーを教務で続けていたところに海軍流の美学(?)がある。
戦況といえば、昭和17年1月に海軍経理学校が発刊した『海軍厨業管理教科書』でも供応食の基本、食卓作法、英語版のメニュー表の作り方など洋式正餐について実にこまかく書かれている。給仕作法も微に入り細にわたって書いてある。たとえば、「給仕長は予め給仕人の受持区域、停立位置等を知らせ置き、給仕長の眼球或は指先の動きに依て斉一迅速に動作し得る様に訓練されて居なければならぬ」など、いま読んでも「なるほど」と感じる。「眼球」の動きだけで上司の意図するところを読みとる-すばらしいマネジメントである。
その半年後がミッドウェー海戦であるから、ナイフとフォークで悠長に食事をしている場合ではなくなっていた。しかし、これにしても広い視野で見れば海軍らしい鷹揚さというか、いかなる状況にあろうとも、固有の分野において懸命に部署を守るということの表れとみたい。
もっとも、昭和13年ごろまでの、いわゆる海軍食文化の華の時代に海軍に従事した人にいわせると、さきの料理伝説もまんざら嘘ではなかったようである。40年前の海上勤務のとき同じ艦の機関長だった人から「間宮羊羹」のサイズをジェスチャー交りでくわしく聞いたことがある。因みに、その人がいう給糧艦「間宮」の羊羹の長さは30センチ以上あったそうである。羊羹の老舗虎屋、小城羊羹(村岡総本舗)の最大の現製品は23センチなので、30センチはたしかに大きい。釣り逃がした魚と同じで、「このくらいあった」という話は多少尾ひれがつくとしても実際に見たり食べたりした人から聞いた話は貴重である。
尾ひれといえば、アジのたたきにタイの頭をくっつけたようなできすぎた話もある。「一流ホテルのシェフたちが軍艦に料理を習いに来ていた」という伝説がある。料理技術が高い海軍でもそこまではいかなかったかもしれないが、本職のシェフたちとは相互協力や交流があり、ときおり業務の関係で築地に停泊する軍艦に部外関係者が来ることがあった。ホテル関係者の来艦を兵員は「習いに来た」と勝手に解釈したとも考えられる。しかし、海軍は遠洋航海などで本物のフランス料理を勉強している強みがある。シェフにとっても軍艦に来れば一つや二つ学ぶことがあったに違いない、とは私の推測である。
よく尋ねられるもうひとつの質問に、「士官だけいいものを食べていたそうですね」というのがある。これも曲解されている。しかし、これを理解してもらうには海軍糧食の成り立ち、食料(食費のこと)、給与制度、さらに明治海軍ができたとき幕府海軍にならってとりあえず士官と下士官兵の食事支給方法を区分し、さらにはイギリス海軍の制度を取り入れたことなど話さなければならず、飯の話が延々と続いてとても飯を食っているどころではなくなってしまう。要するに、「士官は自分で食べた分の食費を出していたからですよ」と簡単に説明することが多いが、多分わかっていない。新聞などにコメントしてもやっぱり、「将校は贅沢な食事だった」と書いてあったりして空しくなる。
※本稿は、高森直史「海軍グルメの復元」『水交』(平成19年9・10月)の一部を許可を得て転載したものです。