明治新政府の発足とともに創設された帝国陸海軍は、明治3年に至り「陸軍はフランス(のちプロシヤ)、海軍はイギリスの制度に倣うこと」に定められ、6年にはダグラス少佐率いる英国海軍教官団が来日し、海軍兵学寮生徒の教育にあたった。これらの教官たちや、米国から帰朝した士官たちから、海軍士官の社交機関の必要性が進言され、明治8年「公誼会」が発足し、現在の東京芝公園に山内(さんない)会議所(クラブ)が集会所として設けられた。
明治9年に「水交社」と改称した。「君子の交わりは淡くして水のごとく、小人の交わりは甘くして醴(甘酒)のごとし。君子は淡以て親しみ、小人は甘以て絶つ。」(荘子)に由来する。クラブにはビリヤード台があったほか、毎月の軍楽隊の演奏会、料理は東京で最初の西洋料理店である精養軒が受け持った。発足時の社員は、在京の文武官、東海鎮守府、横須賀各艦乗組み等600名弱であった。
明治10年には銀座に移転し、「水交会」と改称、会員の紹介者にも開放したが、海軍関係者以外の利用が増えすぎたため、15年には場所を再移転し、18年、利用者も海軍関係者に限定した。なお、この際、社員相互の親睦という当初の目的に海軍に関する学術研究が加えられ、「水交雑誌」(のち「水交社記事」)の発刊とともに毎月学術研究会が開催されるようになり、近代海軍建設の意気に燃える少壮有為の士官の啓発、切磋琢磨の場となり、秋山真之らも論文を発表した。
海軍の拡張にあわせて、各鎮守府に支社を、江田島等には集会所等が設けられ、昭和19年には各地水交社14、集会所27、倶楽部5にまで発展した。このうち、東京の本社が社交クラブ的な性格が強かったのに比べ、地方支社は主として艦艇乗員の憩いの場であり、社員の福利厚生施設的な要素も加わり、各種制服等の取り次ぎ販売等も始め、社員の便宜を図った。なお、昭和初期には、社員は毎月本俸の1/100を社費として醵出することとされていた。
明治の末期になると、次第に現役を離れ水交社員の資格を失う人が増えてきたため、大正2年には「海軍有終会」が設立され、機関紙「有終」を発行し、会員の親睦、広く海事問題の研究等を実施することにした。
関東大震災の後、築地の海軍用地一帯は東京都の中央卸売市場となることになり、昭和3年、水交社は居を移すこと7回、財団法人化され、現在の東京タワーの西北に移転した。昭和10年には、敷地総面積3,700坪に豪壮で近代的な東京水交社本館が落成した。その後の戦争を通じ、水交社は海軍士官たちの私的な会合のみならず、部内のまた陸海軍あるいは他省庁との打ち合わせ、会合にも使われた。各地に増設された支社や集会所等は戦地への行き帰りの人達の暫しの憩いの場となった。
やがて終戦となり、連合軍の進駐後、水交社は将校クラブとして接収され、海軍の解体に伴い、連合軍指令により解散、資産、社屋は国に没収された。元職業軍人達は、公職追放となり表立って団体として行動、会合を持つこともできなくなり、このような状態は昭和27年サンフランシスコ講和条約が発効、日本が独立を回復し、新たに水交会が発足するまで続いた。
※本稿は、市来俊男「水交社の歴史(1)(2)(3)」『水交』(平成13年4月、7・8月、11月)の一部を許可を得て転載したものです。