「戦争」と「事変」の違いは、宣戦布告をしているかいないかで分けられるが、当時、「戦争」としていまうとアメリカの経済制裁を受ける恐れがあったことや、短期間で収拾しようとしていた政府の意図が反映されていたといわれている。
私(元海軍中将戸塚道太郎(海兵38期))は、航海の出身で昭和10年に「那智」艦長に出ており、次は「陸奥」艦長の予定と艦隊長官から聞いていた。ところが、昭和11年の秋の特別大演習に山本五十六航空本部長が審判官で来ておられ、「君は今度思いがけない処にかわるよ。今度航空では沢山の司令が必要になる。戦時を考えると航空をよく理解している将官が40名必要である」と言われ、11月には館山航空隊司令に出た。これ以降ずっと航空に終始することになった。
私の伯父の安東昌喬は、少将になってから航空隊に入り、初めて飛行機を練習して単独飛行をした人である。彼で出来ることなら私にも出来ない事はないと思って、若い士官と一緒に単独飛行から稽古する積もりで考えて見たが、館山には練習機がなかったので仕方なく極力同乗飛行をやることにした。二座の小偵に同乗して盛んに特殊飛行をやったので、四ヶ月目に軽度の航空病にかかった。夜間飛行などでも盛んに同乗して東京に飛んでいったこともある。その頃、丁度中攻ができたばかりで、色々試験飛行をやった。アメリカのアタッセが中攻を嗅ぎつけて館山に見学に来た。中央よりの指令で倉庫には鍵をかけて見せずその他を一巡して案内したが、中攻格納庫の前では車を停めて格納庫の大きさを念入りに眺めていた。
支那事変が勃発し渡洋攻撃のための第一連合航空隊、第二連合航空隊が編成され、私は一連空の指揮をとった。8月、前進基地(台北及び済州島)から取り敢えずの出陣となり、訓練未だ浅く、作戦に対する十分な訓練もしておらず、戦策すらない状態で攻撃に飛び出して行った。訓練の出来ていない部隊が不用意に戦に出ると損害が多いことを如実に体験した。翌年3月に内地に帰還した時は開戦当初より戦を共にした部下は約4割に過ぎず、胸中まことに申し訳ない気持ちで一杯であった。
済州島に展開した木更津航空隊司令竹中龍三大佐は、南京空襲第一日に18機中4機が未帰還となったので、第二日には司令は自ら陣頭に立って攻撃に出ている。私に報告して曰く「第一日の損害が激しいので、万一士気が沮喪してはならぬと考えて、第二日には自分が乗って攻撃をやりました。あの場合、司令官に報告する暇がなかったのでお許し下さい」と云う事であった。誠に申し分のない立派な司令の戦闘指導であると思った。私は出て行きたくても出て行けない。座って指揮している気持ちは自分の精神を天まで突き上げたい位である。山本五十六次官は私の性分をよく知っているので「戸塚は出ていまいなぁ」とよく聞かれたそうだ。
作戦一段落してから上京し、海軍省で大臣以下主要職員に任務報告をしたことがある。報告の途中で当時を思い出して自然に涙が出た。米内光政大臣は平然と聞いておられたが、山本五十六次官は時々ハンカチを目に当てておられた。あとで次官室に行くと、山本次官はいきなり「貴様よくやってくれた」と私に抱きつかれた。こんな嬉しい事はなかった。
※本稿は、『帝国海軍提督達の遺稿 小柳資料』(2010年、水交会)の一部を許可を得て転載したものです。