元海軍中将戸塚道太郎(海兵38期)の回想。
大佐になり軍令部第三課長を三年半やった。主務は軍備である。「大和」型戦艦建造の話が始まっていたが、昭和9年に軍令部として正式な要求が提示された。航空本部の大西瀧治郎大佐は新艦型について強硬な反対意見を表明していたが、当時航空機は未だ決戦兵力ではなく、補助兵力たるの域を出なかった。列国海軍いずれも海軍軍備の中心は軍艦であった。
第一次世界大戦ジェットランド海戦で、ビーチー隊の巡洋戦艦が大打撃を受けて、日本に「金剛」隊を貸してくれと申し入れてきたときも、これを貸すことは日英関係を一層良くし、又得るところもあろうが、万一これを戦場で失うことでもあると太平洋における日本の地位安定勢力に欠陥が起きるから、大事をとって断った経緯がある。それくらい国際的にも重要な艦種であった。
フランスでは、大艦の建造は金がかかると云うので、水雷艇を百何十隻と大量に造った。しかしその時が、フランスを二等海軍国に転落せしめた原因だと言われている。大西大佐の言うが如く、未だ航空万能の時代ではなかったので、将来はいざ知らず当分は海上決戦兵力はやはり戦艦であるとされた。
今日から結果的に見れば、大西大佐に実に先見の明があったと云うことになるが、当時の世界情勢は実はそうではなかった。軍備予算に関する大蔵省との折衝は海軍省の役目だが、井上成美軍務局第一課長は、内容は軍令部が一番よく承知しているのだから貴様行ってくれと云うので荒木経理局第一課長とも連絡して大蔵省主計局の賀屋興宣のところへは3年間も通い続けて予算を貰っていた。
元海軍中将福留繁(海兵40期)の回想。
軍令部第二課長を1年やって、昭和10年10月に第一課長になり2年半勤めた。12月からロンドン軍縮会議が始まった。その頃、大学校教官の山県正郷大佐や加来止男大佐などは戦艦無用論を唱えていた。大西瀧治郎大佐は当時航空本部総務部の課長をしていたが、縷々私を訪れて「「大和」一隻の建造費と維持費を以って、第一線戦闘機1,000機が製造できる。用兵上いずれが有利かは明らかだ。戦艦の建造など止めて飛行機を整備せよ」と執拗に迫ったものだ。
私は聯合艦隊の先任参謀として最新の飛行機の戦力も体験しており、飛行機が直ちに主力艦の主砲に代わって艦隊戦闘を支配するなどとは考えられず、当分は戦艦も必要、航空機も必要だとの併用論を採らざるを得ないものと思っていた。世界の思想も概ねそうであったと思うので、その結論は決して不当であったとは思わない。
昭和19年10月レイテ沖海戦のとき、大西は第一航空艦隊長官、私は第二航空艦隊長官として、北フィリピンの飛行基地で寝食を共にしながら共同作戦をしていたが、「武蔵」が散々敵の飛行機にやられるのを見て「あの時の論争を今目の当たりに見せつけられるようだネ」と、しみじみと語り合ったことであった。無制限建艦競争に突入して日本が果たして財政的に堪え得たどうか色々の批判がなされるが、当時は緊迫した世界情勢を如何に切り抜けるかが精一杯で、その危機感覚はその時代の渦中の人でなければ分かるものではない。
※本稿は、『帝国海軍提督達の遺稿 小柳資料』(2010年、水交会)の一部を許可を得て転載したものです。