高木惣吉少将(海兵43期)が「向洋荘談話(49.10.23)」(『髙木惣吉少将講話集』(1979年、海自幹部学校))で語る正しい戦史研究のしかた。

 戦争や戦闘は人間がやるものであって、兵器がひとりで戦うものではありません。多くの戦史に艦隊や飛行隊の編成は詳述されているが、どういう人がそれを指揮し、どういう判断から、どうなったかという検討が全くなされていません。個々の艦艇などの行動をいくら詳述してみても、それは単なる記録にしかすぎず、戦史という名に値するものではありません。

 また、体験というものは重要なものでありますけれども、それは単に全体の中の一部分にしかすぎないので、これを絶対視したり普遍化したりしてはならないことに注意が必要であります。

 戦争には必ずかなめとなるものが存在するものであって、戦史を検討するとき、歴史的に大きな影響力を持ったものは何であるかを見落してはなりません。戦争の規模の大小とその歴史的重要性とは必ずしも一致しないということもまた、見落してならないことであります。

 資料というものは、えてして後から都合のよいように粉飾されたものが多く、そのために資料を羅列してみても正しい史料とはならないのであります。多くの資料の中から真実を見通す眼によって検討された後に正しい史料が選び出されなければなりません。リッデル・ハートも、「20年の経験によれば、単なる記録に頼るものは戦史というよりも神話に近い」と言っているのであります。

 隠れた情報、人間関係、名誉心、嫉妬、男女関係、関係当事者間の論争というようなものが、歴史に重大な影響を及ぼしているのであるが、しかし、利用できる資料には嘘が多いのであります。ここのところが歴史研究の難しさであります。モントゴメリー元師も、「公刊戦史は、最もひどい偽りの歴史を書いている」と述べています。

 指揮官としての戦史研究というものの在り方は、多読ばかりが能ではありません。大切なことは、いかに多くを読むかではなくて、いかに大事なものだけを少なく読むかということであります。

 戦況を多く覚えることもまた無意味であります。フォッシュ元帥も、「戦場は物を覚える所ではなくて、物を実行する所である」と言っていますし、またアラン・ブルック元師も「いくら戦争をしても、うつけ者はうつけ者である」と言っています。

 チャールズ大公の馬は大公と共に幾多の戦場を駆けめぐったけれども、馬は所詮馬でしかありませんでした。多読、乱読ではなく、第一流の、名誉欲や金銭欲のない人の名著を反覆精読することが肝要であります。悪書に取り付き、時間を浪費しないように注意しなければなりません。