中山定義元海幕長(海兵54期)が「独断的すぎるかも知れぬ、諸賢のご批判を」とした一稿。
戦争は人災であって天災ではない。戦略の失敗を戦術でカバーすることは困難といわれている。まして、戦争指導の失敗を戦闘によってカバーすることは至難である。国家間の衝突の場合には、結局は力と力の対決となり、優勝劣敗となる。神風は期待されぬ。
双方の国力に著しい格差がある場合に、小国が大国に体当たりし玉砕するのも、その意気は壮にみえるが、国家の歴史、文化、国民生活等々に及ぼす影響等につき長期的展望に立ち熟慮したうえで、忍び難きを忍び、ある期間国策の方向を転換し、衝突を回避し後途を策するもやむを得ぬ場合があるというのが私の意見である。われわれの先輩たちが日清戦争後、三国干渉を受けて血涙をのんで雌伏した史実は日米開戦時には未だ記憶に新しいことであった。
決裁機能がトップにある組織は健全であるが、実質的な決定が下部に移るに従い、組織は次第に健康を損ね、遂には全身不随に陥る。海上自衛隊創設にあたり、上記のことを反省し、統率に米国式トップ・ディシジョン・メーキング方式を採用した次第である。一例として、作戦要務において指揮官の情勢判断を重視し、この指揮官の判決に基づき、計画、実施を展開するように指導されたのである。
いわゆる日本的太っ肚(メクラ判)統率をよしとする過去の誤った風潮を追放し、トップ・ディシジョン・メーキングのやり方を強く推進しなければならない。そのためには、トップに立つ者は常に必要な勉強に励み、旺盛な責任観念を発揮することが要請される。このため、幕僚が積極的に補佐しなければならないことはもちろんである。
政治は妥協なりといわれる。しかし、軍事専門家としての制服段階では妥協は禁物である。この段階では、軍事を科学的技術的に研究されるから、威力90のものはあくまでも90であり、100にはかなわず妥協のしようがない。この原理は、特に質に対して冷厳である。日米開戦時、彼我国力見積段階で、データを我に希望的にメーキングしたごときは論外である。
明らかに時代遅れと目される軍備では、抑止力とならぬのみならず、かえって列国の侮蔑を買い、相手の野心を誘発する危険すらあり得よう。その結果、税金の無駄遣いとなれば、国民に対してその期待を裏切ることとなる。
制服が、心血をしぼって国情に相応しい編成、装備、ロジ、教育訓練、情報等々全般にわたって最善の軍備を持つべく努めることは制服本来の使命である。特に列国に伍し、質的に第一級を目標とすべきことは、技術的のみならず士気の面からも極めて大切な点である。
制服の専門的研究は、経済、外交その他安全保障関連要素を総合検討されたうえで、防衛整備実施計画として決定のうえ具現される。この決定は政治の責任で行われる。この場合、制服が懸命の努力をしても、その及ぼす影響力には限界があり、多くの場合、制服には不満が残る。
だからといって、制服段階で軍事的妥協案を出すとしたら、それは行き過ぎであり邪道であると思う。もし、制服に自分の物分かりの良さを示そうなどという私心が少しでもあって、軍事的妥協案を出すとしたらそれは恥ずべきことである。制服としては、専門的に良心的案を策定するところまでで踏みとどまるべきである。
※本稿は、中山定義「戦史におもう」『波涛』(昭和52年3月)の一部を許可を得て転載したものです。