呉工廠: 昭和16年11月、私(海軍中将澁谷隆太郎(海機18期))が呉工廠長に着任した時は戦艦「大和」は既に公試運転は済んでいたが、その他の公試のため徳山から再々出動していた。12月8日朝、徳山の旅館で電報を受け取り呉に帰ったが、汽車の中で岩国の海兵団長から開戦のことを聞いて驚いた。
ミッドウェー海戦の結果を受けて、呉では「大和」の後に三番艦を急造していたが中止となり、着工以来既に100万工数を掛けていたものを解体して横須賀に送った。この艦は後に航空母艦「信濃」となって終戦前に竣工した。航空母艦十数隻の急造も予定されたが、その後の戦況で逐次建造中止となり、海防艦、潜水艦の量産を始め、最後には専ら「蛟竜」を造った。海防艦、潜水艦はもりもり出来て、多いときは1日に8隻も進水したことがあった。船体は設計さえできれば、流れ作業でどんどん出来て行くが、中に入れる機械が容易に出来ない。
昭和18年9月に特別の水雷部隊が編成された。これは飛行機の不足を補うため、魚雷艇を沢山積んで南方に行動するのだと云うので、魚雷艇の大量生産を始めた。魚雷艇はグングン出来るが機械が出来ない。出来ても故障頻発で物にならず、9月1日には一隻も完成せず、工作主任の伊藤技術中尉が責任をとって割腹自殺をしたと云う悲劇もあった。
職工は多い時は呉だけで9万人もいた。それを私は一時6万人に減らしたことがある。人を増やせば宿舎も食堂も増築せねばならず、却って仕事が遅れる。私は人を増やすよりは、現在員で二倍の仕事をするよう工夫せよと励ましていた。しかし、なるべく2時間以上の残業はせぬように心掛けた。
艦艇その他の修理も戦局の悪化と共に急速に増えてきた。実施部隊は修理の1時間でも早いことを要求し、官舎にまで押しかけて来た。工廠側でも最大の協力を惜しまず、てんてこ舞いして働いたが、段々要領が良くなって作業能率が上がってきた。ところが18年半ば頃になると実施部隊は「修理が早すぎる、これでは十分休養が出来ず、くたびれが直らない」と悲鳴を上げるようになった。私は工廠長室にアメリカと日本の艦艇建造工程表を掲げて毎日比較研究していたが、ひと月ごとに開きが大きくなって行くのを見て、内心戦争の将来に多大の不安を感じてきた。
航空兵器総局: 昭和19年7月には航空兵器総局補佐となり日本中の飛行機工場関係を駈け巡って監督指導した。能率の低下は甚だしいもので、例えば半田の中島飛行機工場では鋳物400個を造って合格するものわずかに10個に過ぎないと云った調子であった。あとは鬆(す)が出来て使い物にならない。これは技量の低下と共に慌てて造ろうと焦るからである。これらの指導には随分と骨が折れた。漸く正常化して、これからと云うところへ中部地方に対する敵機動艦隊の大空襲があって頓挫してしまった。
艦政本部: 昭和19年11月には艦政本部長になり、20年になると及川軍令部総長から「悪化した戦勢を挽回するため、是非とも勢号(殺人光線)の研究と威力逞しき爆薬を実現せよ」と厳達された。勢号は光電管を使ってB29を撃墜しようとするもので、有効距離10,000mを要求された。実験は各帝大のエキスパートを招き静岡県島田富士発電所で泊まりこんで行なわれた。なるほど100m位では猫や鳥はコロリコロリと死ぬ。しかし必要なエネルギーは距離の二乗に比例するのだからその電力は非常なものだ。私は実戦の用に立つようなものは難しかろう。あてにされては困ると言ったが、将軍連は大変な意気込みで「戦はこっちのやることだ、技術者はそんなこと心配せんでも良い。3キロでも5キロでも良いから兎に角造れ」とのことで、我々も大いに馬力を掛けたがとうとう終戦までものにならずに終わった。
原子爆弾: 原子爆弾については、ドイツの研究が先行していたので、昭和13年頃長岡半太郎博士を呼んで実用化の見通しを聞いたところ、二、三年では到底兵器にはなるまいとのことだった。その後海軍では、昭和19年初頭から磯科学研究部長を委員長とし、京大理学部の荒勝博士に委託して核分裂の研究を始めた。同年夏、軍需省は満鮮国境付近でウラニウム約1トンを手に入れたので早速京大に送った。陸軍は東大教授仁科博士に委託して、温度差利用による分離方式で別に研究を始めた。海軍は遠心式で、20年6月20日頃には高速遠心分離機の製作に取りかかった。その頃、琵琶湖畔の某ホテルで海軍の原子爆弾会議が開かれ、関係の学者も沢山集まって討議したが、到底戦争には間に合うまいとのことであった。ところが、8月6日省内における戦況説明で、広島が一発の爆弾で壊滅的打撃を受けたことを知り、私はこれは原子爆弾だと直感した。
用兵者と技術者の提携: 終戦の翌日、私は檄を飛ばして技術上敗戦の原因につき方々の意見を求めたが、その多くのものは用兵者は技術を知らず技術者は用兵を知らず、互いに連繋なく独走した。これが敗戦の主因とするものが多かった。アメリカでは両者の連絡が密接に出来ている。軍艦にもシビルの技術者が乗っていてよく協力している。
ミッドウェー作戦のとき、アメリカではオシログラフで日本の各艦の無電の打ち方を探究し、これは「加賀」、これは「長門」と云う風に、出撃前の聯合艦隊の配備を全部読み取っていたと云うことである。それで、愈々日本艦隊が近接して無線封止を解除した後は、レーダーを併用して、どの方向から如何なる部隊が来るという事まで的確に判断して、先手を打ったということである。これから見ても、発信手の個癖を消すため電信の機械打ちと云うことが必要になって来る。
戦備の意義: 軍戦備と云うことには広狭の二義がある。第一次世界大戦以後軍戦備は次第に機械化し、ますます広義の意味が濃厚になってきた。例えば、サンフランシスコ港における荷揚げ設備は、東洋における各港湾の累計よりも大きい。東洋では人の数で仕事を戴こうとするが、アメリカは出来るだけ機械化して人手を省こうとする。
日本は狭義の軍戦備はかなり出来ていたが、国全体としてその環境の機械化が出来ていなかった。第二次大戦後の今日もなお然り、陸上自衛隊では29トン重戦車を造ったが渡れる橋がない。西独では先ず橋梁を整備し、しかる後道路を整備するという。本末を誤ってはならない。
※本稿は、『帝国海軍提督達の遺稿 小柳資料』(2010年、水交会)の一部を許可を得て転載したものです。