戦争指導には、機構の問題と、その機構を媒介とする運用の問題とがある。そして機構についてはアメリカ流儀のタテ式のものと、日本流儀のヨコ式とがある。また運用の問題では、いうまでもなく第一に人間の要素、第二に権限、権能の与え方、第三に基調、すなわち民族性、国民性、歴史的な沿革あるいは伝統といった底流となっている支配要素がある。

 機構のタテ式というのは一定の所掌事項に関する責任とか、権限とかが上下に一貫していて、横に分裂しないシステム、たとえばMATS(Military Air Transport Service)という一つの任務を遂行する機構を考える場合、三軍から平等に指揮線を引くか、MATSを三等分して三軍に分属させるという行き方は日本流でヨコ式のプリンシプル、これに反して集中した機構を一単位にまとめ、空軍の責任としてスッキリしてしまうというのはアメリカ流のタテ式のプリンシプルである。

 余りに具体的な戦争指導方法なり、機構を現在の条件に立って案を提示してみても数年後には過去のものとなるであろうから、基本原則として心に留めてもらいことを述べたいと思う。

① 一機能は一単位主義: ある任務を遂行するために一定の機能を創設または付与するとき、それを一単位には一機能をしないと責任の混交と能率の低下となる。

② 必要にして十分な権能: 一定機能を発揮させるため機構に与える権限(権能)は必要の限度に止めるとともに、またその責任を果すに十分な程度でなければならぬ。

③ 適材適所主義: 機械的な経歴主義や、人格主義はさけなければならぬ。

④ 指揮系統の単純性: 一機構内の各級責任者は、最高から最低位まで、上下の指揮監督系統が単純で、できれば単一であることが望ましい。

⑤ 権限委任の限界: 一定方針の範囲内における行動及び処置の自由選択は、作戦指揮の責任者に最大限に委任すべきこと。

⑥ 会議及び委員会の制限: 会議及び委員会は横の連絡、実行上の基本的調整にとどめて極度に制限しないと、連日小田原評議で、戦場の現実は先に走り去るであろう。日本の現在は基本的調整というよりも、責任の曖昧化、面倒な仕事のおし付け合いと責任の回避に終る恐れが多い。なお会議は提案のアラ探しには適当するが、新しい創意工夫とか、提案を深める働きはゼロであることを知るべきである。

⑦ 直属部下の限定: 個人差によって相違はあるが、一人が肉声によって指揮しうる限度が大体1,000人以下であると同じく、スタッフを付けても直属部下の過大は、非能率、無統制の原因となる。戦時中、東条首相が首相、陸相、参謀総長、軍需相を兼務したようなことは乱暴きわまる一例である。アメリカの研究では一人の責任者の直属部下は7人以下とされ、参謀長、参謀副長代理などが責任者の指示将校として働く場合は10~12人が限度とされている。

 日本は明治以来、観念論にかぶれ易いところがあって、かつてはカント、ヘーゲルの観念哲学、大正、昭和になってマルクス、エンゲルスの観念共産主義が大流行で、制度、機構についても観念的な機構論が多い。しかし戦争指導に役立つのはそんなものではなく、実際的、具体的なものでなければならぬ。

 しかしそうだからといって、わが国の民族的な欠陥や旧式の風習に迎合した制度機構では、外国の実力と力競べをすることはできないから、やはり普遍的に一層優れた合理的なシステムは勇敢に取り入れてゆく必要かあると思う。何れにしても日本は人間関係の難しい、ウルサイ国柄であるから、その点はくれぐれも警戒、注意を怠らぬことが肝心である。

 戦争指導にせよ、作戦指導にせよ、人間が人間を動かし、人間が更に機構と物質とを動かすことである。従って原動力となる人の、精神的並びに肉体的バイタリティーというものか根源である。バイタリティーを欠いたら、いかなる名案、いかなる理想的組織も功績の挙げようはない。マホメットが吐いた名言のように、「山来ってわが足下に入らざれば、われ行いてかの山上に立たん」である。  (「戦争戦争論」『高木惣吉少将講話集』(1979年)より)