昭和16年12月10日、マライ半島クワンタン沖で英艦隊のプリンス・オブ・ウェールズとレパルスの両戦艦が、わが22航空戦隊の攻撃によって撃沈されたが、この2戦艦派遣の英国の内情というのがよく現代戦の特色を表している。
1941年7月28日、日本軍が南部仏印に進駐を開始した時、英海軍は極東艦隊の増援について大いに心を悩ました。当時、英本国艦隊の主力艦はキング・ジョージ5世とプリンス・オブ・ウェールズだけで、地中海艦隊ではクイーン・エリザベス、ヴァリアント、バーラムの3隻、ジブラルタルにネルソンとリナウンの2隻、ラリシーズとレヴェンジは北大西洋護衛に任じていた。その他は、2隻が米国で修理中、3隻が入渠中であった。
ところが、独戦艦ティルピッツが間もなく完成して大西洋の通商破壊に出動することを考えると、9月中に軍令部総長が持っていた腹案は、まず地中海から1隻を極東に送り、そのほかにR級の4隻を後から増派するということであった。11月に至り、バーラムは沈没、クイーン・エリザベスもアレキサンドリアで大破したので、軍令部総長は、極東艦隊は一歩下がってセイロンを根拠地として作戦すればインド洋の交通保護だけはある期間可能だと考え、始めR級4隻を送り、12月以降ネルソン、ロドネー及びレナウンを増援して、シンガポールの代わりにセイロンを根拠地に使う予定であった。
これに対してチャーチル首相は海軍省の提案が気に入らず、最新高速戦艦を少数派遣すればシンガポール、アデン、ケープタウンの三角海面を管制して、日本の南方進出を阻止できるという考え方であった。
英海軍戦史によれば、双方の戦略の根本思想が違っていて、パウンド提督は戦略的守勢をとり重要地域のほぼ中心近くに艦隊を配備しようとしたが、チャーチル首相は戦略的攻勢をとって日本が征服しようとする地域に艦隊を進出させようとするのであった。
10月17日の国防委員会で、海軍卿は主力艦派遣を反対したが、外相は日本の南進阻止のためには首相提案の通り最新高速戦艦を派遣した方がはるかに政治的に効果的であるとして委員会の大勢も首相、外相の説に傾いた。
10月20日、軍令部総長は更に首相と膝を突き合わせて、「単に1隻の高速戦艦だけでは、日本の南進を阻止することはできない。敵は上陸部隊を掩護するため新戦艦4隻を分派することが可能であるから、もしネルソン級2隻に加えてR級4隻をシンガポールにおいたら、あるいはその目的に沿えるかもしれぬ」旨を論じた。首相は、マライ半島に対する強襲は予想されず高速戦艦による通商路破壊の方が心配であるが、それにはR 級では役に立たぬ、と言ってプリンス・オブ・ウェールズ派遣の主張を繰り返した。
このような経緯を経て、遂に海軍は心から賛成しないうちに事態が急迫したので、取りあえず懸案のままプリンス・オブ・ウェールズをケープタウンに回航させ、再検討の後に決定したらセイロンでレパルスと会合するという手筈で、10月25日にフィリップス司令官を載せて本国を出港し、そのままズルズルとシンガポールまで進出することになってしまったのである。
現代戦争が国家の全機構を参加させるようになった結果、一国の最高権力者が大元帥の地位に就くことは当然のことである。しかし、この派遣問題を見ると、戦争指導ということは「作戦干渉」とは本質的に別であることがチャーチル程の大政治家にも呑み込めていない。
イギリス政府がこの場合、連合国または英連邦全体の大局的立場と、アメリカとの連合作戦の必要上、東洋に対して有力なる増援艦隊の急派を海軍に要求することは、これは政治の持つ当然の権利である。しかし「増援艦隊にはどういう勢力を参加させ、どこを根拠地として、どういう作戦をさせるか、またそのタイミングをどう決定するか」ということは、軍令部総長の考えに信頼を置くべきことがらである。もし最高権力者がどうしてもその判断に承服しかねるというのであれば、総長その人を変えて新しく考え直してもらうことが常道である。
プリンス・オブ・ウェールズの派遣問題は、チャーチルが政治的考慮に重点を置きすぎて戦略的考慮を抑えてしまった事例であるが、第二次大戦中チャーチルとルーズベルトは、ドイツ及び日本に対ずる「無差別戦略爆撃」やら更には「無条件降伏の声明」やら、戦争全局、特に戦後の収拾から見て取り返しのつかない重大な過失を犯しているのである。これはむしろ航空戦術または軍事的要請をあまり熟考しないで、そのまま最高政策に取り上げてしまった例である。
チャーチルのマライ攻撃に対する判断、アメリカ政府の真珠湾に対する楽観(リチャードソン提督の警告を斥けた)などみな、この初歩的な原則を犯したもので、わが日本にもその失敗の例は多すぎるほど多い。 (「戦争戦争論」『高木惣吉少将講話集』(1979年)より)