帝国海軍最高の戦術規範として天皇の允裁を仰いで公布され、海軍参謀の虎の巻であった海戦要務令も、戦後は時代遅れで艦隊戦術をミスリードしたとの批判を浴びた。また、大艦巨砲主義とともに、海戦要務令を諸悪の根源とする向きもある。海戦要務令は果たしてそれ程の悪役だったのであろうか。一読もしないでそのように信じ込む過ちを犯してはならない。現在、海戦要務令の全文は実松譲(海兵51期)『海軍大学教育』等で読むことができる(わずか30頁余)ので、まずは一読してもらいたいものである。
日本海軍最初の艦隊戦術書は、明治19年島村速雄中尉(海兵7期、後元帥)が英米の戦術書をもとにして作った『海軍戦術一斑』(斑は物事の一部の意)である。これをもとに、翌年設けられた戦闘方法取調委員会は実地試験を経て『戦闘教範草案』を作成した。また、島村が考案した対抗演習を実施し『海軍演習教範』が作成され、明治25年、この教範の不備を補正した『海軍戦闘教範草案』が発布された。日清戦争に従軍した海軍大学校第1期生らは実戦の経験を生かし、共同作業により『海軍戦闘教範草案』の不備を是正した『海軍戦時要務論』をなし、明治33年には『海軍戦務令草案』が作成された。
一方、米国留学を命ぜられた秋山真之大尉(海兵17期)は、マハン大佐から兵術研究の手ほどきを受け、米西戦争の観戦などを経て帰国し、『海戦に関する綱領』を書き上げた。『海戦要務令(第一回)』は明治34年2月に公布されたが、随所に秋山大尉の影響が見られる。
日露戦争においては、各級指揮官のうち7名の艦長を除き海軍大学校(明治21年開設)を出ている指揮官はいなかった。草創期の海兵を卒業し、日清戦争で実戦を体験した首脳陣には個性派もいたであろうし、必ずしも戦術思想が統一されていたとは考えられないことから、海戦要務令が作戦要務や各艦の戦闘作業について明確な指針としての役割を果たしたであろうことは十分想像できる。実際の作戦は、ことごとく秋山真之が立案、実行していた。海戦要務令は、封鎖や海岸の戦闘については細部の要領まで示していたが、艦隊対艦隊の戦闘については「衆をもって寡に当たる」という大原則のほかほとんど示すところはなく、日本海海戦は東郷長官の卓越した指揮統率、加藤友三郎参謀長、秋山真之参謀の頭脳という「生きた海戦要務令」によって大勝を得たのであった。
明治40年の帝国国防方針制定による八八艦隊の整備が始まり、日英同盟に基づく日英海軍軍事協約の締結により「海軍作戦の目的は海上権を獲得し、海上の交通を安固ならしめるがため、敵艦隊撃滅をもって第一とする」ことを確認した。これに基づき明治43年第一改正海戦要務令が発布された。なお、戦闘に関しては大正元年、要務令の続篇として「戦闘篇」が発布されている。
大正9年には2回目の改正が行なわれているが、原本が残っていないので推定するほかないが、ジュットランド海戦後の巨砲搭載主力艦部隊による艦隊決戦を主軸とする改正であったことは間違いないであろう。
ワシントン軍縮条約締結後、海戦要務令は、国防方針改定より5年遅れて昭和3年、3回目の改正が行なわれた。前回改正からの軍事情勢の変化は、主力艦が対米6割の10隻となったことと航空機及び潜水艦の登場である。
昭和5年には、補助艦軍縮を目的としたロンドン軍縮会議が始まった。この結果、軍令部は昭和9年、4回目の改正を行ない「航空隊の戦闘」を追加した。これも原本が発見されていないとされるが、改正年次不詳として流布されている海戦要務令はこの第四次改正版と考えられている。
昭和一桁時代にあっては、海戦要務令の説くところが最高の戦法であったと思われる。戦後は大艦巨砲下の決戦思想として評判が悪いが、大正元年の第一改正続篇の綱領にあるとおり「各級指揮官は宜しく機宜に応じて之を活用すべし」としているのも、戦術の固定化を戒めたものであろう。しかし、攻撃目標としての敵空母については述べても自軍の空母の運用については述べず、水上部隊の防空戦に関する記述も皆無である。さらに輸送船隊の護衛はわずかしか述べられず、第一次大戦における独Uボートの活躍にもかかわらず海上交通破壊戦における潜水艦の用法に一顧だも与えなかったことは「艦隊決戦要務令」と言われても仕方がなかったであろう。
航空戦力が躍進し戦技が進歩するのは昭和4年頃からであり、海軍大学校は昭和15年に海戦要務令草案(航空戦の部)を作成した。全体の半分が航空決戦に充てられており、奇襲索敵の重視、空母の分散配備、敵空母の攻撃は爆撃によるを例とす、等としており、ミッドウェー海戦ではことごとくこの逆を行なって鉄槌を食らったのであった。
このような海戦要務令に対する評価はどうであったか。秋山真之少佐は、明治35年、書簡の中で、海軍の秘密主義が知識の普及を妨害していると嘆くとともに「海軍の演習実施が今尚幼稚の域を脱せざるは、一つには海戦要務令が虎の巻として扱われ、その改良も進歩もこれなき為にはあらざるかと存じ候」と書いている。
富岡定俊少将(海兵45期)は「海戦要務令は甚だ抽象的で、航空作戦の比重が段々多くなってきたので、それを盛り込もうとしたが、遂に終戦までものにならなかった。海軍では術科の勉強に追われていたから、海戦要務令も艦長一人の供覧に終わってしまったようだ」とほとんど問題にしていない。
実松譲大佐(海兵51期)は、冒頭の著書でナポレオンの言と言われる「10年ごとに戦術を変えるのでなければ、その軍隊は良質とはいえない」を引用し、海戦要務令の改正が遅れ、旧態依然たるものになっていたのではないかと指摘する。
終戦時聯合艦隊参謀だった千早正隆中佐(海兵58期)は、「海戦要務令は日本海軍の戦略、戦闘思想を画一的に縛り、より重大なことはこれに基づいて軍備をしたことである。艦隊決戦を唯一の目標としていたから、艦隊はそれを目標として建造され、他の目的に使用しうるようには建造されていなかった」と述べている。確かに、高速で雑音が高く大型の潜水艦、魚雷戦重視で対潜能力が低かった駆逐艦など思い当たる点は多いし、艦艇、航空機とも攻撃力を最重要視し、防御を次等に置いた攻撃至上主義も指摘されうる点である。
高木惣吉少将(海兵43期)は、「海軍は明治以来、戦術、戦務、各術科の教育訓練は列国を凌ぐほど練成されたが、戦略、大戦略の教育は皆無といってよかったと思う。海戦要務令の戦略と戦術の区別はよくこれを例証している。大先輩の残された業績も戦術、戦務以下の教育である」と述べている。
結局のところ、海戦要務令は海軍諸作戦のうち、艦隊決戦というワン・オブ・ゼムに関する「型」だったのではないか。艦隊決戦は、対米戦にかけた日本海軍の唯一の「ヤマ」であった。秋山真之の予言の如く、第二次大戦は立体戦となり日本海軍のヤマは外れ、帝国海軍は滅びた。しかし、これは海戦要務令の罪ではない。試験に失敗したからといって、外れたヤマを恨むのは筋違いである。ヤマをかけたのも人、戦って敗れたのも人、すべては人に帰するということではないだろうか。
※本稿は、寺部甲子男「帝国海軍と海戦要務令(上・下)」『波涛』(平成6年5月、7月)の一部を許可を得て転載したものです。