元海軍中将戸塚道太郎(海兵38期)の回想。
塚原第11航空艦隊長官は、ミッドウェー作戦には大反対で、「あんな島を取って何になるか。絶対反対だ」と云う主張であった。そして、参謀長の酒巻少将を派遣して、これを中止するよう厳重に聯合艦隊に申し入れた。しかし宇垣纏参謀長は、既に長官の決裁を得て発令するばかりになっていると言って受け付けなかった。
この作戦は、黒島亀人先任参謀等の立案に山本五十六長官が引き摺られたのではあるまいか。南雲忠一第一航空艦隊長官も最初は反対したが、色々の経緯を経てやろうと云うことになったと聞いている。当時の黒島主任参謀は戦後私に、山本長官が「南雲が如何しても受けなければ、霞ケ浦から阿部の眼玉を引っ張り出せといわれたこともある」と言った。
「加賀」と云い、「蒼竜」と云い、何れも私がかつて航空戦隊司令官時代の麾下の母艦である。これ等虎の子の航空母艦が、ミッドウェー海戦で一挙にやられたときは、いても立ってもおられないほどのショックを受けた。翌朝、早速伊藤整一軍令部次長のところへ駆けつけると、顔を伏せて「あの作戦は最後までやりたくなかったのだが、とうとう聯合艦隊に引きずられてしまった」と歎息していた。
私は、次長と一部長に「こうなった以上は小細工をせずに全部真相を発表せよ。国民と共に喜び、国民と共に泣く心がけでなければ大きな事は出来ない」と進言したのだが、一部長は「国民の士気に影響するところが大きいので、そうも出来ない」と言葉を濁していた。あんなことを隠したところで、外国ではラジオでどんどん事実を放送しているのですぐにばれる。また軍需部や工廠等では沈んだ艦との交渉がなくなるとすぐに感づかれる。それよりは率直に発表して国民の決意を促す方が遥かに有効だ。
昭和17年4月我が機動艦隊が、セイロン島においてイギリスの重巡「ドーゼットシャイナ」、「コンウォール」及び空母「ハーミス」を撃沈した時、ロンドンタイムスは直ちに「昨日インド洋ではイギリス艦隊始まって以来の不幸な出来事が起こった」と前置きして、沈没した艦名をそのまま発表した。このやり方が本当だと思う。しかるに我が大本営の発表はいつも事実と著しく相違していたので、戦後大本営発表はウソ出鱈目ばかりだとの烙印を押されたことは残念なことである。
元海軍中将中沢佑(海兵43期)の回想。
戦後大本営が故意に戦果を過大に発表したとの謗りが盛んに宣伝されたが、私に関する限りそのようなことはなく、忠実に作戦部隊指揮官の報告を発表したまでで、断じて、国民を偽せんと企図したようなことはなかった。
私が軍令部一部長時代、作戦部隊からの戦果報告からする敵側の残存兵力と、現に戦場に現れる敵兵力の間に著しい相違があるので、実際の戦果は作戦部隊の報告の三分の一と仮定して作戦計画をなせと参謀に指示したほどであった。また、ソロモン方面作戦たけなわなる頃、聯合艦隊司令部からの戦果報告が余りに大きいので、確実でないと云うものの発表を差し控えたところ、早速聯合艦隊参謀長から、何を根拠として大本営は作戦部隊報告の戦果を減らすかと強硬な抗議の電報を寄せてきたことがあった。
その過誤の原因は、敵の逆襲や戦場の混乱のため、彼我の墜落航空機の炎上、魚雷の爆発音等のみにより戦果を推断することによる過誤及び同一の戦果を数名が別々に報告することによる重複が累積して、遂に厖大なる戦果に膨れ上がったものと思われる。これに反してアメリカでは、例えば船舶の撃沈数の集計に当たっては撃沈の現場写真がなければ潜水艦の功績とならなかったといい、戦果報告は相当厳格に実施されていたようである。この点日本海軍は無統制に近かった。爾後の作戦指導上重大な影響のある本件に関しては十分の考慮を払うべきであった。
※本稿は、『帝国海軍提督達の遺稿 小柳資料』(2010年、水交会)の一部を許可を得て転載したものです。