寺部甲子男元海将の「ある先輩のこと」という一稿。
もう十何年も前のことになるが、黛治夫(海兵47期)著『海軍砲戦史談』という本を見つけた。書名の下には「砲将東郷砲を愛して大勝し、空将山本砲を侮って大敗す」とある。海軍は余り先輩の悪口を言わない社会と聞いていたが、えらいことを書く人もあるものだと驚いた。
その後、レイテ沖海戦(19.10.25)の折、米護衛空母群を猛追した黛艦長率いる重巡「利根」が、いよいよこれからという時、旗艦「大和」から終結命令が届き、艦長は戦闘続行を具申したが認められず涙をのんで反転したことを知った。私は、黛さんにお目にかかった際、当時の状況を『波涛』に書いて頂くようお願いした。その後、黛さんから『波涛』には書けなかったが、生出(おいで)寿(兵74)君が本に書いてくれたので、それを読んでくれとの連絡を頂いた。
黛さんは、現役時代思ったことを正直に言って何回も貧乏くじをひいた「バカの標本」のような男と言われている。生出氏もまた、『凡将山本五十六』などという本を恐れげもなく書き、海軍の一部先輩からは顰蹙を買っているが、広く内外の資料に当たり、関係者から直接話を聞き、信念をもって書いている態度には敬服させられる。
生出寿著『ライオン艦長黛治夫』は、副題が「ある型破り指揮官の生涯」とあるが、黛さんを型破りとしていた帝国海軍こそが問題であり、著者は海軍の戦争指導、指揮統率、慣習、高官の言動に仮借ない批判を加えている。もちろん、レイテ海戦の戦闘場面も詳述されている。
黛さんは、「兵学校の卒業成績が悪かったので、いろいろ新しいことを言っても信用してもらえなかった」と言われる。席次は75番/115人だったそうである。中学で三角をやってなかったので数学がさっぱりだったと。しかし、同期では2回目に海大甲種学生(47期で14名、1回目は1名)を拝命しているし、米国にも派遣されている。海軍も見るべきところは見ているし、我々から見れば大エリートである。
海上自衛隊は、創設以来35年を経て、動脈硬化やコレステロールのたまり過ぎはないであろうか。黛さんは、特に防大生や幹部学校の学生に読んでもらいたいと言われるが、私は、シニアといわずジュニアーといわず、ハンモックナンバーの良い人も悪い人も、先輩の言動を他山の石とし、いつまでも若々しい海上自衛隊であってほしいと念願するものである。
※本稿は、寺部甲子男「随想 ある先輩のこと」『波涛』(昭和63年3月)の一部を許可を得て転載したものです。