大航海時代、帆船において船尾は神聖な場所とされ、聖像が安置され朝夕の礼拝は船尾に向かって行われた。船尾楼甲板は、プープデッキ(Poop Deck/Quarter Deck)と呼ばれるが、これは、法王のポープに因むとも言われている。この場所は、帆の張り具合を一望でき、進行方向の海面まで見渡せる高さがあることから格好の操縦場所となり、上級者の専有場所ともなった。帆船時代が終わっても軍艦の後部甲板は高級士官用とされ、このことは記念艦「三笠」等を見ても明らかである。

 ところで、舵が船の中心線でなく右舷に装備されていた帆船時代には、左舷を接岸せざるを得なかった。このことは右舷側が接岸中の荷役舷の反対側になることを意味し、停泊中の静粛を保てること、そもそも操船者は操舵舷である右舷に立ったこともあり右舷が上席、すなわち右舷優位の慣習が定着していったものと考えられる。この結果、船(艦)長室は右舷側におかれ、船長用の舷梯は右、左の舷梯は他の乗員用とされた。ここから派生して、搭載艇、船室、番号も右が奇数、左が偶数となっており、海上法規とも整合する形で艦橋の右舷寄りに艦長席を装備したり右見張を重視するとの考え方となっている。

 なお、この考え方の例外としては、帆船においては帆走中のみ風上舷が上席とされてきており、現在もヨット等において艇長あるいはオーナーが座るべき場所とされている。また、特殊な例としては、19世紀の英国P&O(Peninsula and Orient)汽船のインド洋を横断する極東航路においては、客室の暑さを避けるため、東航では左舷側、西航では右舷側(Port Outward Starboard Homeward)が上位とされ、このことはPOSH(優雅な)という形容詞として残っている。 

(杉浦昭典著『海の慣習と伝説』(1983年、舵社)等より)