中世ヨーロッパ大陸では、ローマ法王の布告によって、左側通行が強制された。利き手である右手を自由に使い、左胸にある心臓を守るための自衛手段としてだった。人類の9割以上が右利きで、剣を右手に持つのが普通だったからだ。
馬に乗る時は、左腰のさやに収めた剣が、邪魔にならないよう左足を鐙(あぶみ)に掛けて、右足で鞍をまたぐという左側から乗るやり方が楽だった。騎士が出掛けるときには馬丁が馬を引き出したが、乗りやすいように必ず馬の左側を玄関の方においた。左側から乗馬した騎士が、そのまま馬首の方向へ進む場合は良いとして、反対方向へ行くときは右側の手綱を引いて、馬首を右に向けたはずである。左へ向いたら家の中に入ってしまう。鞭を右手に持つなら、右側に空間の多い方がよい。自然、騎士は左側へ寄って進んだであろう。こうしてまず左側通行が定着した。
ところがフランス革命が起こった。革命の立役者ロベスピエールなど無神論者達は、法王や王室の決めたものには何でも反対し覆した。そして、ナポレオンの統治がそれに輪をかけた。フランスの町々では、次々に右側通行条令が生まれ、それが大陸各地に広がっていった。ナポレオンが右側通行を支持した理由は、それまでの騎士道戦法を裏返した彼一流の独創的攻撃法が成功したためといわれているが、ここでは省略する。
アメリカとカナダでは最初から右側通行だった。開拓途上のアメリカ大陸では、幌馬車を使うことが多く、数頭立てで走るときには、後尾左側の馬に御者が乗ったので、他の幌馬車とすれ違う場合は右側へ寄せる方が安全で自然に右側通行になったということだ。
ナポレオンの征服を免れたイギリス、スウェーデン、ボヘミアの諸国はその後も左側通行を維持してきた。そのイギリスがリードして出来たという海の交通規則「海上衝突予防法」では、右側通行が原則になっている。これは別に他の国々が陸上で右側通行を採用していることを慮ったというようなものではなく、海の右舷優位の慣習が影響を及ぼさなかったとはいえまい。
帆船同士では、左舷から風を受ける船が、右舷から風を受ける船を避けることになっている。このような交通規則が明文化されたのは1782年だが、それに似た航法は16世紀末からあり、そのような慣習を拠り所として徐々に固められてきたようである。汽船の航法については明らかにこの帆船時代からの慣習が根拠になっている。
(杉浦昭典著『海の慣習と伝説』(1983年、舵社)等より)