「至誠に悖るなかりしか」ではじまる「五省」は海軍兵学校で行われたもので、海軍の伝統の代表格に思われているが、海軍77年のうち最後の13年間のみ行われたものである。

 五省の目的について、生徒の右傾化防止のための制定ではなかったかという説がある。五省の制定された昭和7年といえば、五・一五事件が起きた年で軍人勅諭下賜50周年。若手将校の教育に頭を悩ませた海軍省が江田島卒業者の右傾化防止のため制定したのではないかとの説であるが、関係者はそろって否定しているようである。

 制定の経緯については、精神教育に極めて熱心だった松下元校長個人の発意。海軍省側、特に人事局(当時局長は松下校長の同期生)との事前協議はしていない。校長は、何か手近な実践的信条を作ることを提唱され、教頭と生徒隊監事に指示、生徒隊監事が中心になり度々全教官に諮り決まった。しかし、軍人勅諭という最高の規範がある上に、屋上屋を重ねる反省信条を制定することに当初、教官の多数は反対だったという。

 この制定の年、兵学校は校長を含むトップ職3人を同時に交代させているが、異例である。この点をとらえて、軍人勅諭下賜50周年を迎えるにあたり、海軍省側が生徒精神教育の強化を意図していたとみる向きもある。その背景として、前年に満州事変を引き起こした陸軍の皇軍ぶり(?)にあおられ、非政治的で良識的だった海軍を物足りなく考える向きの存在を指摘する人もある。海軍軍事参事官(艦隊派の長だった加藤寛治ではとの見方あり)の「陸軍ニハ皇国陸軍ノ意気盛ンナルニ海軍ニハ欠クルナキヤ」との発言もあった。

 また、当時の五省の字が、東郷元帥の筆になる軍人勅諭と似ていることから、松下校長は着任前に当時の艦隊派のバックボーンだった東郷元帥を訪問し、兵学校の精神教育について相談ないし教示を仰いだのではないかとする見方もある。

 いずれにせよ、軍人勅諭の中の「誠心」と同義の「至誠」を盛り込むことで教官達の衆議が整い、五省は終戦までの13年間、60期から78期予科生徒までの19クラスにわたって用いられた。ここで、五省は、軍人勅諭を実現するため、考え違いはないか、努力が足りないのではないかと問いかける勅諭具現化の手段と、勅諭とは独立して精神修養のための手段としての面を持っていたと見るのが一般的なようである。以上が、「帝国海軍における五省」である。

 終戦により、軍隊、軍人がいなくなり、天皇が人間宣言した後は、軍人勅諭の意味がなくなったため、五省は軍人勅諭と「分離」することになった。また、勅諭が「スベシ」と命令調であったのに比べ、五省が「なかりしか」と問いかけ調であったこと、また、「至誠」を誠意、誠実、真心など平易な解釈をすることにより、その融通性と応用性は大きく広がったと見ることができる。

 海上自衛隊幹部候補生学校においては、(占領をはさんで)創設当時から五省を行っていたといい、自習室には五省の額が掲げられていたそうである。昭和60年の記録によれば、その頃の五省の文字は、昭和41年頃、寺岡謹平元中将によるものではないかと推察されていた。昭和43年当時の筑土校長は、「現在、(略)同じ自習室に五省の額を掲げ、各自に発唱はさせていないが、学生に日々の反省の資とさせている。」と説明している。