▼地政学者としてのマハン
戦略思想家としてのマハンについては、シー・パワーの概念やアメリカ海軍の拡張への貢献についてすでに述べたが、彼は基本的には「大海軍主義者」であり、海軍の拡大とアメリカの海外進出のための「イデオローグ(唱導者)」だったといえる。ゴルシコフや劉華清が「ソ連のマハン」「中国のマハン」といわれたのも、それぞれの海軍建設にマハンの戦略思想を取り入れたからこそである。
庄司潤一郎は『地政学原論』において、「戦略思想家マハンのものと比べて、地政学者マハンの発想や概念は、恣意的かつ主観的であり、論理性や首尾一貫性などほとんど認められない」として、マハンの世界観や主張の核心となっている点を次のように指摘している。
・孤立主義から海外発展へ向けたアメリカの国家戦略の転換の必要性
・ロシアとドイツの拡張主義的な世界政策に対する警戒
・ハワイや中南米地峡運河の必要性
・平和のため相手と互角の軍備の必要性と抑止の有用性
・アメリカ海軍拡張の必要性
・イギリスとの友好関係の重要性
・帝国主義肯定論、人種対立論、東西文明対立論などを混交
▼マハンとコルベット
マハンと対比されることが多いのが同時代のイギリスの戦略思想家コルベットである。弁護士でもあったコルベットは、マハンに比べてシー・パワーの効力と限界についてより思慮深い見方をしている。
彼の理論はクラウゼヴィッツ『戦争論』をもとにしていたこともあり、海軍作戦をより広い文脈のなかでとらえ、軍事戦略と外交政策、海軍戦略と陸軍戦略は、意識的に関連づけられる必要があると強調している。マハンが狭義の「海軍(naval)」という用語をよく使ったのに対して、コルベットはより広い概念である「海洋(maritime)」という用語を使ったのは重要な違いである。
また、海軍国は単独では陸軍国に勝利し得ないが、陸軍国との同盟を通じて戦争の結果と平和の姿を決定できたと主張する。ナポレオン戦争はトラファルガー海戦のあとも10年続いたではないか、というわけだ。
彼は、イギリスは海軍力と陸軍力が統合して支援し合う方法による海での戦争の方式、のちに「イギリス流の戦争方式」といわれるものを発展させてきたと考えた。
イギリスは、海を隔てて大陸に影響力を行使できるシー・パワーのおかげで、ヨーロッパ大陸での無制限な戦争や大規模な軍事的関与を回避してきた。その代わりイギリスは、大陸の同盟国に対する財政支援に加え、海上封鎖、海岸地帯への強襲、上陸作戦、遠隔地の植民地や根拠地の攻略といった海からの圧力行使を行うために制海権を獲得し活用できる強力な海軍が必要だった。
制海権を獲得できれば、海上交通路の管制や沿岸部への戦力投入など、海を戦略的に利用することが容易になる。これにより海外で領土を獲得したり、様々な上陸作戦を仕掛けることにより敵の計画を妨害したり、同盟国や自らの立場を強化するのだが、このためには海軍と連携できるような陸軍が必要だった。イギリスの成功の秘訣は、平時、戦時を問わず陸軍力と海軍力を統合して用い、広い意味の「海洋力(maritime power)」を慎重に用いたことにある。
▼マハンの中国に対する影響
マハンが日本海軍にどのように影響を与えたかについてはすでに述べたので、ここでは中国海軍に与えた影響について述べる。
浅野亮は『中国の海上権力』において、中国では建国以来、米中関係が好転した70年代までアメリカの軍事理論の研究は解放軍内で共有されず、改革開放政策が始まり鄧小平が進めた軍事改革のなかで、戦前に欧米に留学した経験のある中華民国海軍の旧軍人らも加わってマハンの思想が紹介されたようだとしている。
また、劉華清は『劉華清回憶録』で、1985年に海軍戦略を策定した記述において彼自身の主張の正しさを裏付けるためにマハンの思想を次のように記していることを指摘し、「劉華清が「中国のマハン」と呼ばれるのも不思議ではない」としている。
国家の繁栄と富強は海洋に依存し、海権は国家の歴史のプロセスに巨大な影響を及ぼし、 海権の遂行は平時も戦時も含まれ、前者は国家が海洋の発展をコントロールすることによって、対外貿易と商業海運を発展させ、後者は武力の行使によって海上交通線をコントロールする事をさす。
さらに、米海大のヨシハラらによると、マハンの戦略思想は中国海軍において依然として支配的であるが、2008年以降はマハンとコルベットを比較する文献が頻繁に登場するようになったとして、大要次のように論じている(Holmes, Yoshihara, ”China’s Navy: A Turn to Corbett?”)。
中国海軍では、マハンを知っているだけでは危険であり、コルベットを学ぶことにより海洋大国の戦略的思想の理解を深めることができ、中国のシー・パワー発展に大きな理論的な意味をもたせることができると考えられている。
中国がコルベットに着目する理由として、①「陸」を重視するコルベットが中国のような偉大な大陸国家の伝統に適合していること、②中国海軍が考える制海権の定義が絶対的なものではなく、コルベットの考える一時的、局所的な海上優勢の考え方と相通じること、③クラウゼヴィッツ流の防御の優位性に立つコルベットの提唱する「積極的な防衛」は、毛沢東の不利な状況では退却し、機を見て反攻するという「積極防御戦略」に合致していること、④艦隊の集中を決定的に重要とするマハンに比べ、コルベットはより柔軟な艦隊の集散を重視しており中国の長大な海岸線の防護により適合していること、⑤中国海軍は自国の沿海部や南シナ海に島嶼をめぐる問題を抱え、日本の列島線を突破して西太平洋に自由に進出するために必要となる水陸両用作戦にコルベットの著作は有益であることが挙げられる。
ヨシハラらは、中国海軍はマハンに加えてコルベットの思想を融合して発展させ、新たな戦略、戦術を持つ可能性があると述べている。