「見よ、今日艦型の変化の極めて著しきことを、そのマストは首切られて醜悪の状(すがた)となり、その帆は除かれてさらに寸影だも留めず、空しく疾風の怒号に委(まか)すあるのみ、帆影相映じて蒼海を彩どりたる、瀟洒たる風姿は消えて跡なく、雅容妍態(がようけんたい)描くが如き旧海軍の名残は、今やまったくその影をひそめて、西天にうすづく夕陽とともに、水平線下に没し去るに至りぬ」

 これは、「水交社記事」(1911.4)附録の「舷窓漫語」という本の序文である。原著者はイギリス海軍大佐であり、海軍がすべて蒸気艦になってしまった時に、数百年にわたる帆走艦の体験によって培われてきたシーマンシップが消滅してしまうことを憂えて著作された参考書なのである。

 この原文が書かれたのは、最初の蒸気軍艦の登場から少なくとも半世紀を経た後であり、その頃の船乗りが、いかに帆走艦に対して愛着を抱き、蒸気艦の導入に対して抵抗を感じていたかが分かる。

 17世紀の中ごろから19世紀の初めにかけての欧米の軍艦といえば、相変わらずの木造帆船、砲も舷側砲で、進歩といえばトン数の増加と砲数の増加であった。ところが、19世紀前半に蒸気エンジンの舶用化が達成され、鉄の大量生産技術がきっかけとなり、以後半世紀にわたり海軍の世界的技術革命が起こった。

 帆船は、蒸気船となり、外輪はスクリューに、木船は鉄船となった。大砲は、鋳鉄・滑腔・前装砲から鋼鉄・施条・後装砲へ、弾丸も中実弾から炸裂弾へ進歩した。これらの技術面に加え、航海術が進歩し、海洋学と気象学の研究成果も海軍の行動範囲の拡充に大きく貢献した。

 これら技術革新に対応するため、それまでの乗組士官の養成は12、3歳の少年の頃から、艦長との個人的つながりで軍艦に乗組ませてもらい、もっぱら艦上での実地見習いから始められていたが、陸上学校での集合教育へと変化した。

 日本の近代海軍の発足とこれら世界的ネイバル・ルネッサンスの時期がほぼ同時となったことは、その後の歴史を考えるとまさに僥倖というべきことだった。