幹部候補生学校の赤レンガの中庭にある桜が、一時期「同期の桜」と呼ばれた(根元に看板があった)ことを知っている人がいるかもしれない。
我々(Tin Can)が候補生の頃は、そういう呼び方はしておらず、看板も当然なかった。前後の期に聞いてもそうだという。私が候補生学校長だった平成23年5月に広島護国神社で開催された海軍祭に参列した際に、海兵出身(60~70期代の方数名)の方からも「今は「同期の桜」っていう桜があるらしいね」と言われたことを覚えている。
当時調べたところでは、江田島市「学びの館」嘱託員宇根川進氏によれば、「同期の桜と呼び始めたのは、海兵75期の人たちで、他の期は当該桜が「同期の桜」であるとの認識はないだろう」と語っている(発言時期は不明)。大正2年に作成された校内図及び写真をみると今の場所は食堂及び洗面所となっている。大講堂が建設された大正8年の図面には、洗面所はなくなっており、スペース的には桜を植えられるようになっているが、絵葉書をみると植えられていない。海兵53期(大正14年卒)のアルバムには中庭に桜が生えており、昭和12年頃のアルバムにも桜の若木が写っている。これらのことから、どうやら大正末期から昭和初期にかけて植えられたもののようであり、植えられた時点からの樹齢ということであれば90年前後ということであろうか。平成19年1~2月に樹勢回復作業をした際に、桜の周辺深さ50センチ~1mに建物基礎部、井戸、側溝跡等が発見され、この話を裏付けているように思える。
歌のほうの「同期の桜」は、海兵71期の帖佐裕氏が、昭和16年か17年頃に、在校中に利用していた金本倶楽部にあったレコードの歌詞を作り替えて譜面もないまま、仲間内で歌っていたものが同期に広まり、やがて潜水学校に行って「同じ潜校」にしてから相当に広まったものという。
この「レコード」は、昭和55年に判明したところでは、キングレコードが昭和14年7月に発売した「戦友の歌」で、歌手は樋口静雄、昭和13年2月号の少女倶楽部に掲載された西条八十の小説「二輪の桜」の主題歌に「麦と兵隊」の大村能章が曲をつけたもので、「君とぼくは二輪の桜 積んだ土のうの陰に咲く どうせ花なら散らなきゃならぬ 見事散りましょ国のため」となっていた。「同期の桜」が流行するに伴い、その作詞・作曲について究明しようとする動きができ、時には自ら名乗り出る者まで現われ、裁判沙汰にまで発展したこともあったらしい。
海兵71期では、作詞の経緯について帖佐氏に期会誌への寄稿を依頼したが、「万葉集の防人のうたのように“不知詠人”の伝説のままがよいと思う」と断られた。帖佐氏は、作詞者が自分であることを自分の口から語られたことはなかったという。「帖佐君は、この歌を誰が作ったかを知って貰うよりも、真情として歌った当時の若人たちの心情を正しく理解して貰うことの方を、より強く望んでいたのではなかろうか」と、期会誌は綴っている。ちなみに氏は、戦時中は大津島(徳山市)の「回天」訓練基地で訓練に明け暮れており、そこでも「散華櫻」という歌を作られたが、こちらの方は当時、島を出ることはなかったらしい。